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隣にいる理由

屋上の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


階段を降りながら、透歌は一度も振り返らない。


「宵」


低く、確信を帯びた声。


「今回の呼び出し。あの犯人は──」


「萌乃です」


即答だった。


宵の声に迷いはない。

透歌は小さく笑う。


「でしょうね」


夕焼けが、長い影を伸ばす。

足音だけが、静かな廊下に残る。


「封筒の紙質。萌乃が普段使っている便箋と同一のものです」


「筆跡は?」


「意図的に崩されていますが、角の払い方に癖があります。昼休みに彼女が書き物をしていた際、観測済みです」


宵は淡々と告げる。


感情は挟まない。


あくまで事実のみ。


透歌は目を細めた。


「本格的に私を陥れにきた、というわけね」


「はい。ただし」


宵は一瞬、言葉を区切る。


「未熟です」


透歌が、くすりと笑う。


「子供らしい」


「ええ」


萌乃は、まだ十二歳。


“ヒロインとして守られる側”に慣れすぎている。


自分が疑われるという発想が、薄い。


だから、透歌を屋上に呼び出し、

千隼を同席させ、

“何かがあった”構図を作る。


透歌が感情的になれば、勝ち。


怒れば、勝ち。


責めれば、勝ち。


それだけの構図。


だが。


透歌は選ばない。

怒らない。

責めない。


――奪わない。


それは、物語にとって致命的な不具合。


階段を降りきったところで、透歌は立ち止まる。


「でも、証拠は出さないわよ」


宵が視線を上げる。


「はい。今は」


「今、暴けば“悪役がヒロインを追い詰めた”になるだけ」


透歌は冷静だ。


むしろ、楽しんでいるようにも見える。


「私はまだ、何もしない」


「観測を続ける、と」


「ええ」


にやり、と不敵に笑う。


「まだまだやれるわ。断罪は回避する。」


宵の瞳が、わずかに柔らぐ。


「透歌様」


「なに?」


「あなたは本当に、悪役令嬢には向いていません」


透歌は肩をすくめた。


「光栄ね」


その夜。


透歌の手帳に、新たな記録が加わる。


・十二歳 初夏

 屋上呼び出し事件

 犯人:萌乃(確定)

 目的:対立構図の強制生成

 結果:未遂(イベント揺らぎ発生)


ペン先が止まる。


「……揺らぎ」


屋上で一瞬、空が歪んだ。


フェンスがノイズのように揺れた。

あれは、偶然ではない。


「宵」


「はい」


「今日は、世界が止まったわよね」


宵は頷く。


「約二秒間。時間進行が不安定になりました」


透歌は静かに息を吸う。


「つまり」


「脚本は絶対ではない、ということです」


宵の声は、どこまでも冷静。


「強制力はあります。ですが、破綻しない範囲で“修正”しているに過ぎない」


透歌は窓の外を見る。


夜空は穏やかだ。


何も知らない顔で、星が瞬いている。


「なら」


小さく呟く。


「もっと壊せる」


宵は一瞬だけ、透歌を見る。

その横顔は、幼い。


けれど。


強い。


「透歌様」


「なに?」


「焦らないことです」


「分かってる」


微笑む。


「私は何もしない。萌乃が動く。世界が動く。私は観る」


そして。


「最後に全部ひっくり返す」


宵は目を伏せた。


観測者は、自分だけ。


この世界の違和を自覚しているのも、

構造を理解しているのも。


萌乃はまだ気づいていない。


自分が“守られる存在”であることに依存している。


だが。


もし。


透歌が本当に、悪役を演じなくなったら?


ヒロインは、何者になるのか。


その答えを、世界はまだ持っていない。

窓ガラスに、わずかな揺らぎが走る。


彼は透歌の隣に立つ。

選択肢の外で。


夜。


透歌の部屋には、机上ランプのやわらかな光だけが灯っている。


手帳は開いたまま。


今日の屋上事件の記録は、すでに整理されていた。


沈黙の中、宵が窓辺に立つ。


外は静かだ。


世界は、何事もなかったかのように整っている。


「観測結果」


宵が告げる。


「屋上での揺らぎは、透歌様の台詞直後に発生。萌乃の動揺と連動しています」


「……やっぱり」


透歌は椅子にもたれた。


「萌乃が動くと世界が安定する。私が外れると、世界が不安定になる」


「はい」


宵は少しだけ間を置く。


「ですが、観測者は私のみです」


透歌が視線を上げる。


「……どういう意味?」


「世界が揺らいだ瞬間、萌乃も千隼も違和感を覚えていませんでした」


透歌はゆっくりと息を吐く。


「私と、宵だけ」


「ええ」


静かな肯定。

それは、少しだけ特別な響きを持っていた。

透歌はペンを閉じる。


「ねえ、宵」


「はい」


「もし、あなたがいなかったら」


小さな声。


「私は、気づけなかったわよね」


宵は答えない。

代わりに、ゆっくりと机の向かいに立つ。


「透歌様は、気づいていたはずです」


「強がり」


透歌は微笑む。


けれど、その笑みはどこか弱い。


「私は一人だったら、多分……」


悪役を演じていた。

怒って、嫉妬して、

脚本通りに。


「宵がいるから、選ばないでいられる」


空気が静まる。


十二歳の少女の言葉は、まっすぐだった。

宵は目を伏せる。


「私は、観測しているだけです」


「違うわ」


透歌は首を振る。


「隣にいる」


それだけで違う。

部屋の灯りが、ふたりの影を重ねる。


透歌は椅子から立ち上がった。

机を回り込み、宵の前に立つ。


距離が、近い。


「ねえ」


視線を合わせる。


「あなたは、どうして私の味方なの?」


その問いは、軽いようでいて重い。

宵は少しだけ考えた。


そして。


「透歌様が、脚本通りではないからです」


「それだけ?」


「はい」


即答。


けれど。


ほんのわずか、声が柔らいだ。


「あなたは、誰かを傷つけることでしか進めない世界を選ばなかった」


透歌の胸が、静かに震える。


「だから」


宵は続ける。


「私は観測を続けます」


「私のために?」


「……結果として、そうなります」


透歌はふっと笑った。


「素直じゃない」


一歩、近づく。


「宵」


呼ぶ声は、柔らかい。


「あなたは、私の味方でいてくれる?」


宵は迷わない。


「常に」


その言葉は、誓いのようだった。

透歌の鼓動が、少し速くなる。

世界は選択肢で動く。


だが今。


この距離は、脚本にない。


透歌はそっと、宵の袖をつまむ。


無意識の仕草。


「じゃあ」


少し照れたように笑う。


「最後まで、一緒に観測して」


宵の視線が、わずかに揺れる。

だが、すぐに落ち着きを取り戻す。


「承知しました」


いつもの口調。

けれど。

一歩だけ、距離を詰める。


「透歌様」


「なに?」


「あなたが選ばないなら、私は支えます」


静かな声。


「あなたが揺らぐなら、私が観測します」


透歌は目を細める。


「完璧ね」


「観測者ですから」


ふたりの影が、完全に重なる。


外では、風が小さく鳴った。

世界はまだ、強制力を持っている。


萌乃も、動くだろう。

イベントも、発生する。


けれど。


透歌はもう、一人ではない。


袖をつまんだまま、透歌は小さく呟く。


「……安心する」


宵は答えない。

だが、離れない。

その沈黙こそが、答えだった。


隣にいる理由が、少しずつ形になっていく。



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