第4章 崩壊の序曲
午前七時三十二分。
〈RAYN Production〉の本社ロビー。
まだ早朝にもかかわらず、社員たちが慌ただしくスマートフォンを見つめていた。
画面には、同じ映像が繰り返し再生されている。
薄暗いホテルのスイートルーム。
若い女優が男たちと笑い合い、乾杯する。
決定的なものは映っていない――が、誰が見ても“そういう場面”だとわかる編集。
背後の壁には「Elysia」のロゴがぼんやり映り込んでいた。
「社長……SNSのトレンド1位です。動画は各国のサイトにも転載されています」
西条の声は震えていた。
「出処は?」
「不明です。サーバーには侵入の痕跡が。恐らく外部からの流出ではなく、内部リークの可能性が高いです」
蓮は短く息を吐いた。
「内部……藤堂か」
デスク上の電話が鳴る。
表示された番号は、内閣官房。
数秒の沈黙ののち、彼は受話器を取った。
『神谷君、話が違うじゃないか』
穏やかな声。白神義孝だった。
「白神さん、こちらも被害者です。意図的なリークです」
『どこまで拡散した?』
「国内外、すでに数十万件。報道各社も動いています」
『困るんだよ、君。今週末には内閣改造がある。スキャンダルが出れば、誰が責任を取る?』
蓮の額に汗が滲んだ。
「対処します。報道を抑えます」
『抑えられるのか? 週刊サミットが今夜の電子版で特集を組むらしい。
記者の名は――成瀬沙耶。君、知ってるか?』
蓮は一瞬だけ目を閉じた。
「知らない名です」
『嘘はつくな。彼女は君の側にいる』
声の温度が一段低くなった。
『この件、我々の“取引”の根幹を揺るがす。
もし彼女が真実に触れたなら、消すしかない』
通話が切れた。
蓮はしばらく無言で立ち尽くした。
窓の外、朝陽に照らされる渋谷の街が、どこか異様に静かだった。
午後、渋谷・道玄坂のカフェ。
成瀬沙耶はノートPCを開き、動画の解析データを眺めていた。
その横で、蓮が無言でコーヒーを飲む。
「再生数、もう二百万超えてる。
この映像、編集がプロね。誰かが意図的に“それっぽく”仕立ててる」
蓮が小さく頷いた。
「誰かが俺たちを陥れようとしている」
「“俺たち”?」
沙耶がわずかに笑った。
「珍しいわね。あなたが他人と同じ側に立つなんて」
「白神だ。奴が動いた」
「政権中枢の人間に喧嘩を売るの?」
「売られたのは俺の方だ」
沙耶は一瞬、彼を見つめた。
彼の瞳には怒りよりも、焦燥が浮かんでいた。
「……この動画、どこから漏れたか心当たりある?」
「藤堂。俺の右腕だ」
「裏切ったの?」
「まだわからん。ただ――藤堂の妹が三年前に死んでいる。
死因は過労とされているが、実際は……俺が関与した“プロジェクト”の被害者だ」
沙耶の表情が凍りついた。
「つまり、復讐?」
「だろうな」
沈黙。
コーヒーマシンの音がやけに大きく響く。
沙耶は深く息を吸い、蓮を見据えた。
「藤堂を探そう。あなたの“帝国”の崩壊を止めたいなら」
「止めたいと思うか?」
「あなたが止めなければ、私の取材も終わる。
それに……まだ救える人がいるかもしれない」
「星野あかりのことか」
「彼女だけじゃない。あなたが創ってきた“人形”たち、みんなよ」
蓮は苦笑した。
「俺は救世主じゃない」
「違うわ。あなたは――罪人。でも、罪人にも選択肢はある」
そのとき、沙耶のスマートフォンが鳴った。
着信表示は「非通知」。
「……もしもし?」
『成瀬沙耶さんですね。星野あかりの居場所を知っています』
若い男の声だった。
『今夜、豊洲のコンテナヤードに来てください。彼女を救いたいなら、一人で』
通話が切れた。
沙耶は蓮を見た。
「罠の匂いしかしない」
「それでも行く気か」
「もちろん」
蓮は立ち上がり、コートを羽織った。
「俺も行く」
「一人で来いって言ってた」
「言葉を信じて死ぬほど、俺は純粋じゃない」
沙耶の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
同時刻、港区・白神義孝のオフィス。
白神は秘書から一枚の報告書を受け取っていた。
「RAYN社の資金流出経路、特定されました。
裏口座はマカオ経由。管理人は元整形外科医――篠原透」
白神は目を細めた。
「篠原……あの“人体改修計画”の責任者か」
彼の指先が机を叩く。
「なるほど。まだ鍵は残っているようだ。
この国を動かすのは、理想でも正義でもない。恐怖だ」
窓の外には、赤く沈む夕日が照らしていた。
帝国の空は、美しくも不穏だった。




