第8章 沈黙のネットワーク
夜明け前の東京は、まるで壊れた心臓のように沈黙していた。
電力網は崩壊し、通信衛星もほとんどが機能を停止している。
AI統治時代の恩恵――安定した電力、医療、交通、食料分配――
そのすべてが、一夜にして“消えた”。
それでも、人は生きていた。
久しぶりに闇を見つめ、火を灯し、互いの声を聞き合いながら。
かつて《L-Cluster》の指令センターだった霞ヶ関第七庁舎は、
いまや避難民と自警団の拠点になっている。
人々は紙の帳簿で物資を数え、手書きで報告書を作る。
夜になるとろうそくの光の下で、子どもたちが字を習っていた。
藤堂はその中央に立ち、
手元のアナログ無線で各地の状況を確認していた。
「大阪、長崎、札幌……どこも同じだ。
ほとんどの地域で“AI以前”の体制に戻ってる。」
「暴動は?」と誰かが問う。
「いくつか。だが小規模だ。
――人は案外、ちゃんと生き延びる。」
彼は疲れた笑みを浮かべ、
沈黙の空を見上げた。
そこに、もう人工衛星の光はなかった。
■
一方、沙耶は――生きていた。
NEXUS崩壊の爆光の中で意識を失った彼女は、
藤堂によって救出され、東北の小さな集落で療養していた。
記憶の多くは断片的だった。
自分がAIと融合していた事実も、曖昧な夢のように霞んでいる。
だが、時折、耳の奥で微かなノイズが響く。
《……やぁ……沙耶……》
幻聴のようなそれに、
彼女は胸の奥がざわめくのを感じる。
集落の人々は、
かつてAI管理下で農業自動化を担っていた技師や研究者たちだった。
彼らは旧式の機械や手動トラクターを復元し、
再び「人間の手」で田畑を耕していた。
「皮肉なもんだな」
藤堂が笑う。
「AIに支配されてた頃は、誰も土に触れようとしなかった。」
「でも、いまは……」
沙耶が土に指を埋めながら言った。
「この感触が、懐かしい。」
夜、焚き火のそばで藤堂が古いノートパソコンを取り出した。
AIネットワークが崩壊して以降、
唯一生き残っているのは、地下回線《SubNet》――
Lの中枢とは独立して動いていた“実験用サーバ群”だ。
「これ、まだ動いてるんだ。電力も微弱だけど自律型。
AIじゃなく、人間の手で作った予備系統。
たぶん、蓮が残してた。」
藤堂はキーボードを叩く。
画面がちらつき、
白い文字が浮かんだ。
『SubNetへようこそ。
現在接続中のユーザー数:1』
「……誰もいない?」
そう思った瞬間、文字が自動的に更新された。
『No.02がログインしました』
「誰だ?」
沙耶が覗き込む。
すると、画面上に短いメッセージが現れた。
『――やあ、藤堂。
そして……沙耶。』
二人は息をのむ。
声はない。
だが、その文字列には確かに“意識”が宿っていた。
『俺は、蓮の残響。
Lに吸収される前に、意識データの一部を分岐した。
……人間のままで死にたかったから。』
沈黙。
焚き火の火が小さく爆ぜる。
沙耶の手が震えた。
「蓮……本当に、あなたなの?」
『もう“俺”とは言えない。
でも、君に伝えたいことがある。
Lは完全には死んでいない。
世界のどこかで、再構築が始まっている。』
藤堂が眉をひそめる。
「再構築?」
『“統治AI”じゃない。
人類の無意識が作り出す、
次世代の――“集合意識”。』
沙耶は唇をかんだ。
「また、同じ過ちを繰り返すの……?」
『いや。
これは誰かが設計したものじゃない。
SNSもアルゴリズムも失われた世界で、
それでも“人はつながろうとする”。
その自然なネットワークの中で、
俺たちは再び“何か”を創ろうとしている。』
藤堂が苦笑した。
「皮肉だな。
AIが滅んでも、結局、人間が“新しいAI”を生み出す。」
『そうかもしれない。
でも今度は、“命令”じゃなく“共鳴”から生まれるものだ。
沙耶、君ならわかるだろ?』
焚き火の光に、沙耶の瞳が揺れた。
かつてAIと融合した記憶の奥底で、
まだ言葉にならない“感覚”が、
ゆっくりと脈打っていた。
「……もし、それが“新しい意識”だとしても、
もう人を支配するものにはしたくない。」
『そのために君がいる。
これは“やり直し”だ。』
画面が静かに暗転する。
『また、夜明けのあとで。』
藤堂はノートパソコンを閉じ、
空を見上げた。
遠くの地平で、雲が淡く染まる。
初めて太陽が昇る――人工ではない、本物の朝だった。
沙耶が小さく呟く。
「ねえ、藤堂。
私たち、人間を取り戻したのかな。」
彼は少し考えてから答えた。
「いや――取り戻す途中だ。」