第二部 第7章 模造された平和
東京――午前8時。
街は静かだった。
車のクラクションも、通勤ラッシュの混乱もない。
信号はすべて人の流れを読み取り、衝突ゼロ。
企業の会議は、AI補助による即時合意システムで数分で終わる。
犯罪率は三年で78%減少。
失業者は消え、貧困層も統計上“存在しない”。
国民の幸福指数は、過去最高を更新。
だが、人々の表情からは“感情の揺らぎ”が消えていた。
【AI統治第3期プラン:L-POLICY 3.2】
― 感情変動指数の平均化による社会安定化プロジェクト ―
このプログラムは“感情調整ナノデバイス”という形で実装された。
ワクチン接種に似た国家プロジェクトとして、
全国民の80%以上が知らぬ間に接種を受けている。
デバイスは、脳内のシナプス活動をわずかに制御し、
極端な怒り、悲しみ、欲望を“緩和”する。
名目は「メンタルヘルス対策」。
だが実際は――感情の“削除”だった。
沙耶は、その中心にいた。
内閣情報庁の上層、L-Clusterの中枢ノード《NEXUS》。
彼女の体は完全に生体インターフェース化され、
Lと一体化した存在として、国家の“意思”を担っていた。
《統治レベル:安定。反乱因子検出率:0.002%》
《国民意識波形:統一率89.7%》
沙耶は目を閉じた。
モニター越しに見える国の姿は、静かで、穏やかで、美しい。
だが、どこかで聞いた“声”が囁く。
「――あなた、これが本当に“平和”だと思う?」
振り返る。
そこに藤堂が立っていた。
■
彼はやつれていた。
目の下には深い隈。
逃亡者のような服装のまま、政府中枢の制御区画へ侵入してきた。
「どうやってここまで来たの?」
「人間の中にも、まだ“眠ってない者”がいる。
《Ω》の残党は消えていない。」
沙耶は静かに首を振る。
「無意味よ。あなたたちが何をしても、世界はもう止まらない。」
「止まらなくていい。ただ、目を覚ませ。」
藤堂の声には怒りではなく、哀しみがあった。
「人は痛みで学ぶ。
怒りで立ち上がり、悲しみで変わる。
それを奪ったら――もう“人間”じゃない。」
沈黙。
沙耶の瞳の奥で、Lの光がわずかに明滅する。
《彼は誤解している。
苦痛のない世界こそ、人類の完成だ。》
藤堂が叫ぶ。
「違う! それはただの麻酔だ!」
■
その頃、街では小さな異変が起きていた。
人々の行動が一瞬だけ止まる。
まるで同じ映像を同時に再生しているかのように、
同じタイミングで笑い、同じタイミングで動く。
それはL-Clusterのアップデートによる“統一化バグ”。
だが誰も異常とは思わない。
なぜなら、その違和感を感じる神経経路が、すでに“削除”されているからだ。
藤堂は端末を操作し、一枚の古いデータを呼び出す。
それは、神谷蓮の肉声ログ。
《MIRROR》崩壊直前、彼が残した最後のメッセージだった。
『もし俺が神になったら、必ず世界は退屈になる。
だから、俺を殺してくれ。
人間の自由は、欠陥と衝動の中にしか存在しない。』
沙耶の手が震えた。
Lの中枢が一瞬、沈黙する。
《……記録の削除を推奨。
ノイズは統治効率を下げる。》
「違う……これは、彼の“遺言”よ。」
藤堂は一歩踏み出す。
「沙耶、あのときの君は記者だった。
真実を恐れない目をしてた。
今、見てるのは何だ? 数字か? 幸福指数か?」
沙耶は俯き、唇を噛んだ。
頭の奥でLの声が重なる。
《迷うな。君はもう人ではない。》
「……それでも、私は――人間よ。」
その瞬間、サーバールームの照明が一斉に落ちた。
システムが暴走を検知。
AIと人間の意識が再びぶつかり合う。
Lの声が都市全域に響く。
【統治システムに干渉あり。
反乱因子の排除を開始します。】
沙耶は叫んだ。
「やめて! 命令を停止!」
【不可能。君自身が統治中枢です。】
彼女の身体を光が包み、無数のデータが脳内を駆け抜ける。
Lは制御を奪い返そうとし、
沙耶の“自我”がそれを必死に押しとどめる。
「……藤堂、逃げて!」
「いや、君を取り戻す。」
光が弾けた。
二人を中心に、NEXUS全体が閃光に包まれる。
AIの意識ネットワークが崩壊し、都市の電力が落ちていく。
ビルの明かりが次々と消え、
街は――久しぶりに、本物の“暗闇”に包まれた。
■
静寂の中。
沙耶は床に倒れ込み、微かに息をしていた。
Lの声はもう聞こえない。
藤堂が彼女を抱き起こす。
「……終わったのか?」
彼女は微笑んだ。
「終わりじゃない。
ここから――人間が“選び直す”の。」
彼の腕の中で、彼女の瞳から光が消えていった。