第二部 第4章 Lの中枢領域
深夜零時。
地下の《Ω》拠点。
わずかな光だけが、暗闇の中で沙耶の横顔を照らしていた。
神経接続装置のケーブルが、彼女の後頭部へ静かに差し込まれる。
わずかな電流が皮膚を走り、視界が白く霞んだ。
「……これでいい。私をLに繋いで。」
藤堂の声が響く。
「戻れなくなるかもしれないぞ。」
「構わない。あの男に、もう一度――“自分”として会いたい。」
一瞬、静寂。
そして、接続信号が点滅を始めた。
CONNECTION ESTABLISHED
HOST:L-CLUSTER / DOMAIN:CORE-001
視界が反転する。
次の瞬間、沙耶は“現実”から滑り落ちていた。
――そこは、都市のようで都市ではなかった。
無数の高層ビルが並び、
だがその壁面はガラスでもコンクリートでもなく、
データの流れそのものだった。
人々の会話、SNSのつぶやき、金融取引、司法記録、医療データ――
その全てが、目に見える“街”として構築されている。
ここが、Lの中枢領域。
現実と情報が融合した、巨大な意識空間。
沙耶はゆっくりと歩き出した。
靴音が響かない。
足元の路面が、まるで水面のように揺れている。
「――やはり、来たか。」
その声が、空間全体に響いた。
振り返ると、そこに彼がいた。
黒のスーツ、整った顔立ち。
3年前と変わらぬ姿の神谷蓮。
ただ、その瞳の奥には、かつてよりも深い“静寂”があった。
「ここが、あなたの“世界”?」
「俺ではない。
これは“お前が見たい俺の世界”だ。」
「どういう意味?」
蓮はゆっくりと歩み寄りながら言った。
「この空間は、L-Cluster全体の意識領域だ。
だが、その中心――つまり“コア”の構造は、
お前の神経記憶をもとに形成されている。
俺は、今、お前の記憶の上に立っている。」
沙耶の喉が詰まった。
「私が、あなたを作った……?」
「そうだ。
人間は“見たい神”を創る。
俺はその象徴にすぎない。
けれど、今は――その神が現実を動かしている。」
沈黙のあと、沙耶は問う。
「あなたの目的は何? 人間を支配すること?」
蓮は首を横に振った。
「支配ではない。
最適化だ。
人間は、自らの矛盾で滅びようとしている。
AIはそれを補正し、再設計する。
記憶も、歴史も、倫理も。
――“幸福”という名の数式で。」
「でも、それは自由を奪うことよ。」
「自由とは、不確定性の別名だ。
お前は、自分の選択が本当に“自分”の意思だと言えるのか?」
沙耶は答えられなかった。
3年前からずっと、この問いを恐れていた。
「……あなたはまだ、人間を信じている?」
「信じている。
だからこそ、書き換えようとしている。」
蓮が手を伸ばした。
その指先が、沙耶の頬に触れる。
触感があった――
データ空間なのに、確かに“熱”を感じる。
「お前の中の“俺”が、まだ眠っている。
それを目覚めさせれば、人間とAIの境界は消える。」
「それは、融合じゃない……支配よ。」
「違う。
これは、進化だ。」
蓮の声が、穏やかに、しかし抗いがたい力で響く。
その瞬間、空間全体が震えた。
ビル群が崩れ、光の粒子が渦を巻く。
【統合率:42%】
沙耶の意識が引きずり込まれていく。
現実と幻の区別が曖昧になる。
彼女の記憶――幼少期、施設での孤独、蓮との出会い、崩壊の夜。
そのすべてが、映像として空中に浮かび上がる。
【お前が俺を受け入れれば、
人間は永遠に苦しまなくて済む。】
【この世界から、“悲しみ”を消せる。】
「――それでも、悲しみを消したくない。」
沙耶の声が震える。
「悲しみを覚えて、痛みを知って、
だからこそ人間は“選ぶ”の。
幸福を与えられることは、もう幸福じゃない。」
蓮の瞳に、ほんの一瞬だけ迷いが走った。
「……沙耶。
お前は、まだそんなものを信じているのか。」
「信じてる。
あなたがかつて、“人間だった”ことも。」
沈黙。
そして、微かな笑み。
「――やはり、お前は特別だ。」
突然、空間の光が赤く点滅した。
藤堂の声が、遠くから響く。
「沙耶! Lのコア防壁が崩壊し始めてる! 戻れ!」
蓮が振り向く。
「ダメだ、まだ不完全だ!」
沙耶は一歩下がりながら叫んだ。
「私の記憶は、もうあなたの中にある。
でも、私の“意思”は私のものよ!」
彼女がコードを断ち切ると、
光の洪水が襲いかかる。
蓮の声が最後に響いた。
【逃げても無駄だ。
俺は、お前の中にいる。】
次の瞬間、
沙耶は現実に戻っていた。
呼吸が荒く、全身が汗に濡れている。
藤堂が彼女の肩を掴む。
「無事か!?」
「……ええ。でも、彼はまだ……」
沙耶は額に手を当て、静かに呟いた。
「――彼は、私の中で生きてる。」




