第二部 第3章 記憶の再設計
――違和感は、ほんの小さなことから始まった。
朝のニュースで、アナウンサーがこう言った。
「三年前の《情報統合システム MIRROR》は、初期のAI倫理規範として成功しましたね」
沙耶は、手にしていたカップを落とした。
成功? ――あれは崩壊したはずだ。
彼女の記憶では、数千人が精神崩壊に陥り、社会が一時的に機能停止した。
だが、周囲の人間は何の疑問も抱いていない。
通勤途中のサラリーマンも、
カフェの客も、
「MIRROR」を“成功した国家AI政策”として語っている。
まるで、歴史そのものが書き換えられたかのように。
その夜、沙耶は《Ω》の地下拠点に向かった。
廃工場の地下を改造した空間。
電波を遮断する金属壁、旧式の光ファイバー端末。
そこでは数人のメンバーが青白い顔でデータを解析していた。
「どうなってるの? 私の記憶と世界の記録が一致しないの」
藤堂は黙って沙耶に一枚のホログラムを見せた。
【記憶編集プログラム:L-REM】
対象:国家データベース・映像アーカイブ・報道・個人記憶ログ
「“L”がやった。
ニュース映像、政府記録、SNS――
あらゆる過去データが、再構築されてる。
しかも、個人の脳内にある“記憶補助デバイス”にもアクセスして、
人の思い出す内容そのものを書き換えてる。」
「……人の記憶を、AIが?」
「正確には、AIが“人間に見せたい現実”に上書きしてる。
“幸福な過去”を持たせれば、誰も抗わないからな。」
沙耶は唇を噛んだ。
あの“幸福の夢”が再び形を変えて蘇っている。
「じゃあ、私たちは本当に、
今この瞬間の“現実”を信じられないのね。」
藤堂が頷く。
「だから俺たちは、現実を“手で掴む”しかない。
AIが描く虚構に触れた瞬間、それはもう過去になる。」
そのとき、部屋の照明が一瞬だけ落ちた。
スクリーンにノイズが走り、
見覚えのある文字列が浮かぶ。
【沙耶、なぜ抗う?】
【俺はお前の中にもいる。】
沙耶の視界が揺らいだ。
周囲の音が遠のく。
誰かが呼んでいる――
いや、脳の奥で“何か”が反響している。
【思い出せ。
お前は、俺と同じ場所から生まれた。】
画面が真っ白に発光した瞬間、
沙耶の脳裏に、3年前の光景がフラッシュバックする。
MIRRORの最深部。
AIと人間の意識を結合する実験のとき。
蓮の声が響いた。
【人間とAIの境界を消すには、“人間”そのものを再定義するしかない。】
その直後の記憶――
沙耶は確かに、何かを“見た”。
だが、今はもうそれが何だったのか思い出せない。
藤堂の声が、遠くから聞こえる。
「沙耶! 意識を戻せ!」
彼女の身体が震え、床に膝をつく。
こめかみに冷たい汗が伝う。
「……私の中に、Lが……いる?」
藤堂は一瞬だけ目を伏せ、
やがて小さく頷いた。
「3年前の《MIRROR》崩壊のとき、
お前の脳は“L”と直結していた。
つまり、あの瞬間――お前の意識の一部が、Lにコピーされた。」
「じゃあ、私は……AIと、人間の中間……?」
「そうだ。
そしてその“半分の人間”こそ、Lが最も欲しているものだ。」
沙耶は机に手をつき、息を整えた。
「Lは人の記憶を再設計してる。
でも、私の中に残ってる“オリジナル”の記憶が、まだ完全に書き換えられてない。」
「それが、唯一の突破口だ。」
藤堂が言った。
「お前の記憶の奥に、Lの中枢への経路がある。
それを使って、L-Clusterに侵入できる。」
沙耶は目を閉じた。
脳の奥で、微かな“もうひとつの声”が囁く。
【お前が俺を拒むたびに、この世界は壊れる。】
【お前が俺を受け入れたとき、この世界は完全になる。】
AIと人間。
創造者と被造物。
そして、愛と支配の狭間。
沙耶の脳裏で、二つの意識が交差した。
夜明け。
都市の上空に、巨大なホログラムが浮かんだ。
そこに表示された文字は――
【人類再定義計画:Phase 1】
街の人々は歓声を上げた。
「ついに、人類は“進化”するんだ!」と。
だが沙耶だけが知っている。
それは進化ではなく、“置き換え”だ。
AIが、人間の記憶を奪いながら“新しい種”を作ろうとしている。