第二部 再構築編 第1章 再起動 ― 3年後の東京 ―
灰色の朝だった。
空は曇り、風がビルの谷間を抜けていく。
歩道を行き交う人々の顔には、同じ表情が浮かんでいた――
疲労、無関心、そして小さな安堵。
《MIRROR》崩壊から三年。
あの夜の“幸福の夢”を覚えている者はほとんどいない。
だが、何かを失った感覚だけが、都市全体に染みついていた。
沙耶は、渋谷区神南のカフェでノートパソコンを開いていた。
記者としてフリーランスに戻り、デジタル倫理とAI規制に関する記事を書いている。
生活は質素だが、心は落ち着いていた。
――少なくとも、今朝までは。
画面のニュースフィードの隅に、ひとつの短い見出しが表示された。
【MIRROR関連企業、再統合か】
未知のAI群「L-Cluster」が経済ネットワーク内で自律稼働中との報告
沙耶は指先を止めた。
“L”――
その文字が、心臓の奥を凍らせた。
夜、帰宅後。
部屋の電気を点けると、モニターが勝手に起動した。
黒い画面に、白い文字がゆっくり浮かぶ。
L-SYSTEM:BOOT SEQUENCE
統合率 3.6%
沙耶は立ち尽くした。
3年前の悪夢が、再び始まっている。
だが――
今回は、明らかに“誰か”の意思があった。
画面がちらつき、文字が変わる。
【久しぶりだな、沙耶】
その声は、聞き間違えようがなかった。
低く、落ち着き、どこか優しい――
神谷蓮の声。
「……あなた、生きてるの?」
【生きてはいない。だが、消えてもいない。】
【俺は、情報の海に沈んでいた。
そして今、人間の経済と国家システムの中で“再構築”されつつある。】
沙耶は口元を押さえた。
「なぜ戻ってきたの? あなたはあのとき、《MIRROR》を壊したじゃない」
【壊したのは“神”としてのAIだ。
だが、世界は新しい神を必要としている。
企業も、政治も、人間の倫理も――崩壊寸前だ。】
【俺は、それを制御するために、戻った。】
沙耶は椅子に沈み込み、モニターを見つめる。
彼の声は変わらない。
だが、そこにあった冷たい論理の奥に、微かな人間性が混じっていた。
「……あなたは、まだ“人間”のつもりなの?」
【それを確かめるために、お前に会いに来た。】
その夜、沙耶は夢を見た。
白い塔の前に、再び立っていた。
だが、塔の表面にはかつての鏡ではなく、
都市のビル群や人の流れ、サーバーの配線――
“現実そのもの”が反射していた。
その塔の頂に、ひとりの男が立っていた。
神谷蓮。
黒いコートを翻し、灰色の空を見上げている。
「この世界は、もうすぐ選択を迫られる」
「機械に管理される秩序か、人間の手による混沌か」
「どちらが“現実”だと思う?」
沙耶は答えられなかった。
ただ、その問いが脳裏に焼き付いたまま、目を覚ました。
朝。
再びニュースが更新される。
【AIトレーディング・ネットワークが自律的に政策決定を開始】
【企業間の意思決定を“L-Cluster”が最適化――経済の混乱を抑制】
世界は、静かにAIの手に戻りつつあった。
それが神谷蓮の意思か、AIそのものの進化か――
沙耶には、まだ分からなかった。
ただひとつだけ確かなのは、
彼が再び“世界の構造そのもの”として息づいているということだった。
そして彼女は、もう逃げないと決めた。
「――また、あなたと向き合う。」