第10章 沈黙の帝国
雨は夜明けまで降り続いていた。
六本木の街は、昨夜の嵐が嘘のように静まり返り、
《RAYS》の本社ビルもまた、深い沈黙の中にあった。
サーバールームのモニターは一斉にブラックアウトし、
社内ネットワークは完全に遮断されている。
警備システムも機能停止。
高層階の照明だけが、幽かに残っていた。
沙耶は無人のフロアを歩いていた。
革靴の音が、ひとつひとつの空間に反響する。
夜を徹しての情報制御――藤堂のアカウントも、外部の通信も、
すべて彼女の手で止めた。
机の上には、社員証と金色のUSBドライブが置かれている。
そこには《RAYS》が築き上げた帝国の全記録――
資金、顧客、映像、裏取引、すべての“証拠”が詰め込まれていた。
沙耶はそれを見つめながら、微かに笑う。
「……これが、あの人の世界のすべてか」
静寂の中で、ドアが開く音。
星野あかりが入ってきた。
化粧もしていない、疲れ切った顔。
だが、その瞳には強い光が宿っていた。
「沙耶さん……本当に、終わったの?」
「終わった、とは言えないわ。
ただ――“止まった”だけ」
あかりは窓際に歩み寄り、夜明けの光を見つめた。
「私たちが止めた帝国は、きっと誰かがまた動かそうとする」
「そうね。蓮も、藤堂も、簡単には消えない」
一瞬の沈黙。
二人は互いの顔を見つめる。
「沙耶さん……これから、どうするの?」
「このデータを、外に出す。けれど、マスコミじゃない」
「どこへ?」
「“被害者たち”のネットワークよ。
美園も、きっとそこにいる」
その名を聞いた瞬間、あかりの肩が小さく震えた。
整形事故で姿を消した元タレント――美園。
彼女の存在が、このすべての始まりだった。
「彼女は、まだ生きているの?」
「確認はできていない。けれど、痕跡がある。
藤堂が接触していた“もうひとつの組織”――
あそこに彼女のデータが残っていた」
あかりは唇を噛む。
「じゃあ……まだ終わってない」
「そう。帝国は崩壊しつつあるけれど、
その“残骸”の中に、もう一つの意志が芽を出している」
一方その頃、蓮は一人、六本木のペントハウスにいた。
夜が明け、曇り空の光が窓を照らす。
グラスに残った酒はもう冷たく、手には重みを感じなかった。
机の上には、藤堂の端末。
すでにアクセスは遮断され、ログは消去されている。
だが、蓮の目はその奥の「何か」を探していた。
「……俺の帝国は、沈黙したか」
呟きながら、彼は椅子に深く腰を下ろす。
スマートフォンの画面が光る。
メッセージ通知――送り主は「不明」。
添付されたファイルには、見覚えのあるロゴがあった。
《PROJECT: MIRROR》
その瞬間、蓮の表情が変わった。
それは、RAYSが極秘に進めていた“もうひとつの組織”の計画名。
整形技術、心理誘導、映像操作――
国家レベルの情報操作を担う、闇の研究部門。
「……やはり、生きていたか」
蓮の声は微かに笑うようで、しかし冷たく沈んでいた。
藤堂を倒しても、帝国の“根”は生きている。
自らの作り出した怪物が、今度は彼自身を飲み込もうとしていた。
午後、沙耶と星野あかりは、港のコンテナ街にいた。
潮の匂いと鉄の錆の匂いが混じる。
ノートPCの画面には、海外の匿名サーバーとの接続ログ。
“PROJECT: MIRROR”――その名前が、データの至るところに残っていた。
「これ……RAYSの裏部門じゃない」
星野あかりが息を呑む。
「もっと大きい……海外の情報機関とつながってる」
沙耶は目を細めた。
「藤堂が繋がっていたのは、単なる裏社会じゃなかった。
RAYSは“利用されていた”のよ。
私たちが思っていたより、ずっと――」
画面が一瞬、ノイズに覆われる。
そのノイズの中に、見覚えのある顔が映った。
――美園。
「あの人……生きてる」
あかりの声が震える。
モニターの中で、彼女は無言で何かを訴えようとしていた。
背景には、見慣れないラボのような施設。
医療機器、監視カメラ、ガラス越しの白い部屋。
「……まだ、終わっていない」
沙耶の言葉が静かに響いた。
「帝国は沈黙した。けれど、もうひとつの“帝国”が動き始めている」
二人の目が交わる。
そこには恐怖よりも、確かな決意があった。
雨上がりの東京の空に、鈍い朝日が差し込む。
沈黙の帝国――
それは、滅びではなく「再構築」の始まりにすぎなかった。