第一話:記憶
コ──……ン
……なんだろう……
なにか、聴こえる。
カコ──…ン
──音。
どこかで聴いたことがある。
心の奥をくすぐるような、やさしく懐かしい響き。
──匂い。
ふわりと甘く、どこか切ない香り。
懐かしい。
……わかる。この香りは──金木犀。
──光。
淡い青みを帯びた、白くてやわらかな光。
あたたかく、包み込むような光。
──風。
そっと頬をなでるような、やさしい風。
音も、匂いも、光も──
すべてが心地よくて、どこか懐かしい。
なぜか、心の奥がザザーッと……
でも、……もう、痛みはない。
コ──……ン
透き通ったガラスのような音が、風に乗って遠くから届く。
意識が、少しずつ澄みわたっていく。
──ここは、どこだろう?
苔に覆われた、古びた石造りの壁。
まっすぐに続く石畳の道。
天井はなく、深く切ないほどの空が広がり、
そこから優しい光が降り注いでいる。
カコ──…ン
また、あの音。
……ファのシャープ。
どこか寂しげで、透明な音。
いったい、どこから響いてくるのだろう?
──進んでみよう。
この道の先へ。
どこまで続いているのか、わからない。
およそ100メートルほど先から、霞がかかったように視界がぼやけている。
コ──……ン
また聴こえる。
ソ……そして、さらに高いファのシャープ。
まるで、クリスタルグラスに純度の高い氷を落としたような音。
清らかで、美しい。
自分が誰なのかも、どこから来たのかも、思い出せない。
だが、それは大したことではない──そんな気がする。
体も心も、ふわりと軽い。
春風のような優しい風と金木犀の香り。
そして、あたたかな光が、心の奥でザザーっと揺らめく。
それは──思い出したいのかもわからない、
ノイズ混じりの記憶を、そっとなぞるような感覚。
この先──天井のない石道の果てには、なにがあるのだろう?