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その肆

 七屋から帰る道中、母は典子の隣に並んで歩いてくれた。行き道では典子を引きずるように前を歩いていたので、これは典子の反省ぶりを認めてくれた合図と思っていいだろうか。


 例のカフェーの前を通りかかった時、ちょうど店仕舞いをしていたマスターが典子に気づいた。マスターと目が合った典子は、はっとして首をすくめ、マスターからわざとらしく目をそらす。しかし、マスターにその意図は伝わらず、陽気な彼は典子に向けて大きく手を振ってきた。


「おーーーい、典子ーー! なんだあ? 母ちゃんと買い出しかぁ?」


 典子の母はその呼びかけに足を止め、怪訝そうに典子を振り返った。罰が悪い典子は顔を両手で覆ったが、名前を呼ばれてしまえば無視するわけにもいかず、マスターにトボトボと近づいていった。


「こんばんは、マスター。さっきぶり……」

「おう、なんだ元気ねえな? あ、そうだ。さっき、典子の学校の先輩がご来店くだすってよ、今度また、典子も誘いたいっつってたぞ」

「そ、そうなの? あー、もちろん、ぜひ、うれしいなあ……。一人じゃ、一人じゃカフェーなんて来ないから、わたしーー!」


 典子は、「一人ではカフェーに来ない」という部分を強調して答える。誰に向けて強調しているかといえば、もちろん母に向けてだ。もしここで、典子が毎日カフェーの窓を覗いていることが母に知られれば、怒鳴られるのは七屋の件の比ではない。


 典子はなんとか頑張ってこの場を切り抜けようとしているのに、典子とマスターの会話をじっと観察していた母は、何を思ったか、にこやかに近づいてきてマスターに会釈した。


「娘がいつもお世話になっております~」


 母がそう切り出した瞬間、典子はヒッと喉を鳴らす。マスターと親密すぎたせいだろう、少なくともここに来たのは一度や二度ではないことは、既にばれてしまっているようだ。


「いやあ、世話なんてしてませんよ。むしろ少々気まぢぃ、いつも娘さんをほっぽり出してんのは、俺なんで」

「あら、わたくし、恥ずかしながら、娘の様子なんて家の中でのことしか知りませんから、マスターとこんなに仲良しだなんて思ってもみませんでしたのよ」


 典子は慌てて母の腕を引き、会話に割り込んだ。


「母さん、女学校の先輩に連れてきてもらったことがあるんだよ。ここには、何度か!」


 しかし、鈍感なマスターは、典子の言葉を引き継ぐつもりで再び母に話しかける。


「そうですよ、あの学校ったら、ませた生徒の多いことでね、ここの常連だっているわけですがね……その中に、ある日小ぢんまりとした可愛らしいのが混ざってましてねえ~、いや、お母さん、これ失礼な意味じゃなくてですね」

「ほほほほ、でもマスター、それだけだったら……この子一人でお店に来ることはないでしょうから、こんなにも可愛がってもらっているのは不思議じゃないですか」

「母さん、お店の邪魔しちゃうから帰ろう!」

「なんだよ、水臭ェ。仕事は終わってんぞ」

「あんた今は黙っときなさい」


 典子は大人二人に挟まれて、両側から二の句を阻まれてしまった。典子は顔を歪め、空気の読めないマスターを下から睨みつける。

 そこでようやく、マスターがはっとして口を押えた。


「あっ、お前、そうか! うちのこと言ってないのか!」

「何を言ってないっていうんです?」

「いやあ、うちのことなんて! ははは、言えるわけないでしょう、こんな……」


 マスターの目が泳ぎはじめ、ワタワタとした様子で典子と母を交互に見た。マスターの口からは声こそ出ていないものの、「こんなみっともない真似」と唇が動いている。そうだ。客観的に見て、この店での典子の様子は醜態と呼ぶべきものだ。「カフェーの大窓の常連をやっている」なんて、母にだけは絶対に知られてはならないことだと、マスターはようやく気が付いたらしい。

 マスターは典子に睨まれながら、必死で話をごまかそうと舌を回した。


「こんな……、こんなみっともない……店!」


 典子の母がぎょっとする。


「まさか! 立派なお店です!」

「いいえ! 俺は、そう、典子の料理の腕と比べたら、大したことないやつなんです!」

「ちょっと、マスター何言ってんの!?」


 典子は素っ頓狂な声を上げた。窮地に立たされ脳みそを使いすぎて、なんだか、頭がくらっとする。どうやら、マスターは典子をでたらめに褒めることで話題をすり替えることにしたようだ。もういいから、余計なことを言わないでほしいのに。


「知ってますか、お母さん。典子は女学校で一番家庭科の成績が良いんだそうですよ。本人は、いつもやっているからだなんて言うけれど、いいや、それだけじゃないと思うね。俺は、これ、才能ってやつだと思いますよ。俺はそう、いつも、典子がここを通るたびに、料理人になることを勧めているんですよ!」

「そんな料理人だなんて、典子は女子ですよ!」

「お母さん、今の時代は女子でも料理人がいますよ。女学校を出たら、ぜひ料理の学校に行かせたらいい! 芦尾の奥さんなら、きっと話せばわかってくれるじゃないですか。いいでしょう、やりゃあしょう!」

「だって、マスター、いやですわ。この子ができるのは家庭料理ですわよ」

「いいえ、今ちょうど、そうだ、今ちょうど教えようとしていた料理があるんです、実は! そう、オムライスです!」


 マスターはそう言って、典子に向けて下手くそなウインクをした。「上手く話をつなげたろう!」とでも言いたそうな顔だ。マスターはこの後、典子が「カフェーにはオムライスの作り方を教わりに行っている」とでもいえば、辻褄が合うと思ったのだろう。これなら、嘘ともいえないから、例えば、疑り深い母が別の常連客に確かめたとしても、ごまかしが利くとの判断だ。

 マスターにしては、しっかり考えた作戦だったかもしれない。話の相手が、書店で謝罪してきたばかりの典子の母でなかったら。


「オムライス」


 典子の母が、それだけ、一言、繰り返した。典子が下から見上げるうちに、母の目は真ん丸に見開かれて、着物の袖から出した骨ばった手を、プルプルと震えるほど握り始めた。

 典子は、おそるおそると母に声をかける。


「か、母さん……」

「……そう、オムライス。典子ったら、そんなにもオムライスが作りたかったのね」


 そう言って、こちらを見下ろした母の目を、典子はとうとう直視することができなかった。

 典子が咄嗟に下を向くと、母はマスターが見ていることも顧みず、典子の頭に拳を振り下す。


「いッ、痛――!」

「人様に迷惑かけるくらいなら、放課後は一目散に帰っておいで! お嬢様のお世話もきりがないんだよ。仕事ならいくらでもあるんだからね!」


 頭を両手で押さえる典子を、母は全身を使って怒鳴りつけると、カフェーのマスターに嘘くさい微笑みを向けてから、丁寧に別れのお辞儀をして、屋敷の方に歩き始めた。ついさっきまでは、横に並んで歩いていたのに、今度は当然のように典子を置いていっている。

 典子は泣きそうになって、自分で自分の頭を撫でながら呻く。


「うう……」

「あー……、すまん典子。俺のせいか」

「そうだよ、マスターのせいだよ! なんでわざわざオムライスの話をしたの! 今、ちょうどそれで怒られてきたところだったのに!」

「ええ、すまんかったよ、こちとら知らねんだそんな事情は」

「ああ、もう!」


 典子は顔を覆った。これ以上言っては、マスターに対する八つ当たりだ。マスターは少し察しが悪く、話題選びも間違えてしまったけれど、典子の秘密を誤魔化そうと、十分に頑張ってくれたのだから。


 それから、典子はカフェーのマスターに別れとお礼を告げて、母に追いつかないようにしながら、帰路についた。

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