その参
七屋という書店は、典子が常連をしている例のカフェーと同じ通りにあるが、カフェーよりも少し学校に近い所にある。しかし、学生たちに人気な書店といえば、七屋よりも二回りは大きく、文房具やちょっとした雑貨まで売っている駅前の書店の方だが、そうかといって七屋の方も、七屋なりに盛況であった。それというのも、昔ながらの営業形態を続ける七屋には従業員がおらず、たった一人の店主は基本的に店奥のカウンターから動くことがない。要は「立ち読み」に非常に適していると、巷で有名なのである。
しかし、今日以降、典子は、この店で立ち読みができなくなった。母に厳しく怒られたからではない。母に強引に引きずられ、店主を前に頭を下げさせられたところ、なんと、典子の立ち読みが店主にばっちりバレていたことが判明したのだ。
丸眼鏡のおじさん店主は目を細め、穏やかそうに微笑んで言う。
「いやあ、熱心に本を読む姿は見ていて感心しますよ。皆さんね」
しかも典子だけじゃない。お客みんなの立ち読みがバレていた。七屋の店主は、店の本が立ち読みされていることをわかった上で、寛容に許していたのだ。
「お嬢さんは優秀ですね。ちょっと本を見ただけで、オムライスの作り方を覚えてしまったのですか」
「褒めるようなこと言わないでください。この子はろくなことを覚えてこなくて。卵を三つも使うって言うんですよ」
典子は、母と七屋の店主のやり取りを聞きながら、ムッと頬を膨らませた。だって、せっかく店主が優しく許してくれたのだから、これ以上典子を悪し様に言う必要はないじゃない。立ち読みをしたのは悪いことだ。それは十分に理解している。店主のお世辞を真に受けているわけでもない。とはいえ、何度も蒸し返すように謝らなくたってもいいじゃないか。典子は、母の行動に納得がいかなかった。
そのとき、母の背に隠れてむくれていた典子の顔を、店主が首を傾げるようにしてうかがってきた。店主は、丸眼鏡の奥で人が良さそうな笑顔を浮かべて、典子にこう言った。
「お嬢さん。私はね、誰かの知りたいことが、きっちりその人に届けばいいと思って、本屋をしているんだよ。本が売れることは一番大事なことじゃあない。本は中身が大事なんだ。私は本が好きだからね、どんな形であれ、本の中身が、欲しい人に届くことを祈っているよ」
その言葉を聞いて、典子は無性に恥ずかしくなった。典子は、どうして店主が立ち読みを許してくれていたのか、その理由を考えもせず、ただ好意に甘えて罪から逃れようとしていたのだ。それは、店主が本を大切に思う気持ちを踏みにじる行為であるというのに。典子は顔が赤くなるのを感じながら、店主の前へ出て、自ら深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
店主は典子の様子を見て驚いたような表情をしたが、すぐに、じんわりと微笑み、一つ柔らかく頷いた。
「あなたの知りたいことが、無事にあなたに届きますように。心から祈っているよ」