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その弐

「卵三つ!? った、馬鹿だよ、この子は。本当、世間知らずにも程があるってんだね」


 そう言ったのは、典子の母だ。典子の母は家政婦で、近頃きわめて景気の良い「(あし)()家」の屋敷へ住み込みで勤めている。典子もまた、母と共に「芦尾家」で厄介になっていて、女学校が終われば、放課後は母の手伝いとして、芦尾家の家事を担っていた。


 さて先程、「典子はお嬢様ではない」という話をしたと思うが、それでも典子が女学校に通えている理由はこの芦尾家にあった。どうやら、典子の母と芦尾家の奥様は若い時からの知り合いで、「もし互いに娘が生まれたら同じ学校に通わせよう」と、「その時の資金は芦尾家が持とう」と、固い約束を交わしていたらしい。そのおかげで、今の典子の生活があるわけだ。


 しかし、いくら良い学校に通おうとも、母娘ともども根は一般庶民である。だから、一度互いの間で火花を散らしてしまったら、それが枝豆の筋を取る作業の最中であろうと関係なく、こんな荒っぽい言い争いをする。


「馬鹿じゃないですけど!? 世間知らずっていうのはね、世の中の流れも知らずに洋食を否定するような、昔っぽい人間のことを言うのよ~」

「だまらっしゃい、人をそんな風に罵って! 母さんは否定なんかしてないよ。ただあんたが家で洋食を作ろうなんて言うもんだから!」

「毎日毎日醤油味ばっかより、奥様も喜ぶと思うけど?」

「あのね、わたしが言いたいのはね、卵三つも一度に使えないってことよ! 卵一つで三銭、三つで九銭、三人家族で二十七銭……」

「いいじゃん、この家、お金持ちなんだよ!? わたしたちが食べるのに作ろうってんじゃないのよ。セレブなマダムが食べてるものを、うちのセレブにも作って差し上げようってば!!」

「うちの奥様は金銭感覚がしっかりしていらっしゃるのよ。あんた、今の流行りの料理法が何だか知ってんの? あのね、『一品五銭で作る調理法』」

「オムライスの作り方だって料理本に載ってるよ」

「へぇ? 一皿に卵を三つ使いましょうって?」

「そう書いてたから言ってるんだよ。わたし、ちゃんと見たんだから!」

「は?」


 その時、母の手から枝豆の粒が溢れた。枝豆を持ったままギュッと手を力ませたせいで、思い掛けず鞘から豆が飛び出したのだ。典子は転がる豆を目で追いかけ、テーブルから落ちる前に拾ってサッと深皿に入れる。

 それから、視線をゆっくりと上げて母の表情を伺った。あえて正面から母を見返さないのは、無論、嫌な予感がするからだ。母が「は?」と漏らした声は、その直前の発言より2オクターブくらい下がっていた。

 典子はひっそりと考える。自分はどうやら、勢いに任せて失言をしてしまったらしい……。案の定、典子の母は顔色を変えて、厳しく典子を問い詰めてきた。


「あんた、料理本を買ったのかい?」

「買ってないよ。見ただけ」

「見たってどこでよ?」

「……」

「どこで見たかって言ってんの!」

「ほ、本屋さんだよ」


 典子が渋々と白状すると、母は大きく息を吸って、額を片手で覆った。束の間の緊張後、母が溜息を押し殺したような低い声で言う。


「盗んだんだね」

「盗んでないよ、ちょっとその場で読んだだけ!」

「いいや、盗んだんだよ。場所は大通りの七屋(ななや)かい? 謝りに行こう」


 典子の弁明を他所に、母は手早くその場を片付け、割烹着を脱ぎ始めた。本気であの書店まで謝りに行くつもりだと知り、焦った典子はなんとか話を聞いてもらおうと、テーブルの向こうへ回って母の袖を引く。


「ちょっと待ってよ、本当に行くの!? わざわざ?!?」


 しかし、無理矢理に母の気を引こうとする仕草は、全くの逆効果だった。典子の母は、より一層目を釣り上げて怒鳴る。


「典子! お前は、なんて卑しい子かしらね!」


 母の袖を摘んだ典子の手は、母にむんずと掴み返された。母は典子をグイグイと引っ張って屋敷を出るや、説教を垂れながら大通りの方へ、迷いなく向かっていく。その間、典子は、丁寧かつ厳しい説教を黙って聞くことしかできなかった。


「物を取ることだけが盗みじゃないのよ。お金を払って知るべきことを、あんたは無銭で知ったんだから、そりゃあ立派な犯罪だよ!」

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