その壱
時は大正十年やそこィら。暦や世間の出来事など、この典子には関係ない。典子というのは、ちょうどそこに居る満十三歳の女学生だ。ほら、大通りに面したカフェーの前でつま先立ちになって、店内の洒落たテーブルやランプをキラキラと見せびらかす大窓から、必死に中を覗いている。その有様ったらどうしようもなく、この子の母親が見たら卑しくてしょうがないと唾棄するだろう。しかし、周りにどう見られようが……たとえ厳しい母親に何と言われようが、典子は全く意に介さない。子供にとっての暦や世間と同じく、典子にとっては何もかもが関係ない。なぜなら、今の典子にとって注目すべきものといえば、この窓ガラスの向こうに見える「洋食」以外に無いのだから。
しかし、女学生といえばその多くが良いトコロのお嬢さんである。家へ帰れば潤沢な資金がある上に、厳しい入学試験に受かるほどには頭の方も優秀なはずだ。そのはずだから、往来を行く人々は皆、典子を見て疑問を感じるわけである。
「洋食を食べたいのならば、店に入ればいいじゃないか?」
特筆することには、典子が着ているセーラー襟のワンピースは、東京の中でもデモクラシーの最先端を自称する学校の制服だ。そんな優秀なお嬢様が、一体どんな事情があってカフェーの外で窓ガラスにへばり付き、鼻の孔を膨らませているのだろう……。
答えは簡単なことで、典子は別に、優秀なお嬢様というわけではないのである。いや、仮にも例の女学校に通っているのだ、優秀さは確かなものだが、いかんせんお嬢様じゃない。高級な料理に興味はあれど、気軽に食べられたもンじゃなかった。
だからこそ典子は、ここのカフェーに毎日しつこく通っていた。この店は通学路の中程にあるため便が良い。それに、窓が十分に大きいため入店要らずで素晴らしい。
カフェーのマスターは典子の身分やら事情やらというものを十分に理解しているので、客を一通りさばいた後、空いた手で玄関ドアを開いて典子を怒鳴りつけてくる。
「おい典子! お前、金もねえ癖して店の窓の常連になる気か、気持ち悪い顔こっちに晒しやがって。客が怖がってんだよ、いい加減にしろ!」
このマスター、口は悪いが典子のことを嫌っちゃいない。昔は有名ホテルのバーテンだったらしいが、今は隠居するように個人店を開いて、サイフォンでコーヒーを淹れながら独自の洋食を作っている。こうして典子を怒鳴るふりをして外に出ていくと、興奮に頬を染めた典子が孫のように駆け寄ってくる。それがたまらなく嬉しいのだが、この男本来の性か、全く顔に現れないから困りものだ。
しかして、窓から店内へ変顔を晒し続けた結果、カフェーのマスターを店先までおびき出すことに成功した典子は、決まってこんなことを言う。
「ねえ!! オムライス教えて、オムライス!!」