『鏡の中の炎』 35頁
夜明け。
話したくないから話さない。
それはみんな知っている。
だから、きかない。
でも、みんなはなぜか、誰を殺したのか知っている。
秘密とはそういうものだろう?
一日、野宿をしたが、西地区で下宿屋が見つかった。
そこの窓からはフェンスで囲った閉鎖中の海水浴場が見える。
家賃は安い。働かなければならない。
出かけよう、アルバート。
運び屋は乗客自動車の運転手のように町を知らなければならない。
運び屋はパッケージの中身以外の全てに精通しなければならない。
住所。市営バスの経路と発車時刻。官憲に追われたときに隠れる場所。
それに異端審問官に逮捕されたときに電話するオートマタ専門の弁護士事務所。
D.S.Jは法学博士。
J.Dは法務博士。
DPhは哲学博士。異端審問においてはこれが二番目に役に立つ。
「最高はDThだ」
家主が言う。
「何の略だ?」
「神学博士」
海に背中を向け、東へ向かう。
道路には市電のレールが敷かれていて、それをたどる。レールが震えるのは数十秒後に車両があらわれる合図だ。
坂を上り、坂を下る。
旧市街の城門をくぐって、旧市街の城門を出ていって。
海軍工場がある海軍街を歩き、棕櫚樹が一本もない棕櫚樹通りを歩き。
大家はのたもうた。
DThが最高だ。
でも、ガルにとってはDEngも重要だ。
工学博士。
中央地区の騎馬像広場を横切って、クラクションを鳴らす自動車を歩道へかわす。
『リズの食堂。おいしいコーヒーと熱いサンド!』
おや、読み覚えのある文字だ。
もう、音楽隊通りまで来たんだな。
諸国の王や宮廷魔導師たちをあれだけ戦慄させたヌスルもこのころは一介の旅芸人にすぎず、使える魔法も鏡に幻を映す子供だましだけだった。
――『鏡の中の炎』 35頁