『コポルクク、ガルの写本』 76頁
ずっと南だと思っていた水平線から日が昇り、雲の切れ目全てに茜の光を灯している。
磨いた鉄に縁取られた丸い舷窓からも、その光が流れ出し、ガルの船室に丸い聖域をつくった。
聖域の左端はガルの寝台に触れていて、光はシーツをさかのぼり、ガルの枕に優しく触れている。
「それで――」と、少し高い声。「あなたの言う世界とは、どこまでを指す?」
空色の髪をした若者――捜査オートマタが椅子にかけ、手帳の縁を鉛筆で叩いている。赤いカラバス革の装丁はそこだけがへこんでいる。彼は目撃者や証人、そして容疑者と話すとき、いつもこんなふうに手帳の縁を叩いているのだろう。
「そんなに大きなものではないんだ。ハインズの店、下宿屋、公女と護衛オートマタ、アーロン、ケリー、狙撃者。僕のささやかな世界」
捜査オートマタは先日寄港したときに買った新聞をガルに見せた。それは旧錬金公国で反乱があり、エステル公女を首班とする臨時政府が立ち上がったことを報じていた。その写真を見ると、演説台に立つエステル公女の影に護衛オートマタのルシアが立っていた。
「そうか。彼女たちも消えたわけじゃなかったんだ」
「きみの世界は世界というよりは社会だ」
「そんな機能分化がされたものではないんだ。ただ、そこにあって、居心地がいい」
「コミュニティという言葉もある」
「それはなんとなく箱詰めを想起させる。ノースエンドにつけるべき名前だ」
「きみは彼女がきみの世界を壊す。そう確信した」
「アタリをつけたというほうが正確だ。確固たる物証があったわけではないからね」
「なら、それが間違っていたときは? 殺すことの不可逆は考えなかったのか?」
「彼女が僕について全部知っていたのは間違いない。目的は分からない。ただ、その目的の途上で起こること、つまり彼女が殺されることの責任を誰かが取らないといけないことは分かっていた。そして、それができるのは僕だけだった」
「……一度目と同じか」
「その通り。なぜか、みんなが知っていることだよ」
捜査オートマタは立ち上がり、手帳を閉じた。
「自分がこれからどうなるか、気になるか?」
「もし、あなたの所属する司法機関が合理性を重んじるなら、僕を海に捨てるでしょう」
「残念ながら、特別捜査局は合理性とは程遠い。今度の事件で書類が山のようにできる。それだけだ」
ドアが閉じると、ガルはベッドに横になった。
オートマタらしい夢を見ない眠りから覚めると、ドアが開きっぱなしになっていた。
廊下に出るが、誰もいない。安全ランプがキイキイ小さく揺れている。
お世辞にも上等とは言えない廊下を歩き、針金で固定された花瓶や遠近法がない時代の海図の額を冷かし眺め、そして、甲板に出た。
水夫も、捜査オートマタもいないのに、船は順調に南へ進んでいた。
空は墨を垂れ流したような闇夜で、星は雲のなかで窒息していた。
甲板には灯油入りのランプがいくつか置いてあって、舳先の下では斬り割られ押し流される海がザアザアと不平がましく鳴いていた。
煙突からは火花まじりの黒煙が流れ、針路へ先回りするように飛んでいく。
焦げ臭い機械油のにおいがずっと漂っている。
左舷の向こうにあるのは山の連なりで、船はあまり陸地から離れた場所には行きたがらないようだ。
キャビンへ降りると、ビリヤード台が一台あるだけの娯楽室へ降りた。
絶えず揺れ続ける船のなかでビリヤードが流行ると思った馬鹿者の買い物だったが、ビリヤードというゲームにもっと運の要素を強めたいと思う一部の人びとにはちょうどいいゲーム環境だ。
手に馴染んだキューにチョークをたっぷりつけ、ブレイクショットから何も考えず、ただ、好きな玉を打ちまくった。次々とボールがコーナーに消え、下の玉溜め袋がボールでいっぱいになったころ、ひらひらしたネクタイを締めた老人がウイスキーグラスを片手にひとりやってきた。
「こんばんは。調子はどうだね、オートマタさん」
「悪くないよ。ルールを気ままに考えた即興の遊びが思ったより、攻略しがいのあるゲームになりそうなんだ」
「どんなルールだね?」
「目についたボールをとにかく突く。ボールが船の揺れに干渉されながら、奇妙なカーブを描くのを眺めながら、昨日のことと明日のことを考える」
「建設的な遊びだと思うよ」老人は紙やすりを糊付けされた台の隅でマッチを擦った。「樋から流れ落ちる水を眺めながら、機関銃を思いついた男を知っている。彼は滝が怖いと言っていた」
「どうして?」
「滝を眺めたら、人類が滅亡してしまう兵器を思いついてしまうから」
「難儀な想像力だ」
「まったくだ。結局、人間、一番幸せなのは、ぼーっと生きて、すっぱり死ぬってことだ。人間の苦労はこんな大きな脳みそをもらったところから始まった。気鬱だの責任感だの、そういったものはみんな脳みその皺から生まれ出たものだ。オートマタはどうだね?」
「オートマタの苦労は都市から生まれるかな。その大きすぎる箱庭で、ルールを逸脱しないよう、自分の思考機械と絶えず打ち合わせをして、都市に溶け込もうと努力する。オートマタだってだけで殴ってくる人間をかわし、人機差別せず友人をつくる。一番注意しないといけないのは住所不定にならないようにすること。たとえ、僕が機関銃を発明しても、住所がなかったら、都市は見向きもしない。都市は人間なりオートマタなりが必要になったとき、住所をもとに探し出す。住所のない人間は都市への服従を拒否したとみなされる」
「だから、倫理警察はホームレスを執拗に小突くわけだ」
「でも、ホームレスほど都市を観察できる人間はいないと思う。何せ、都市のなかにいながら、都市のなかにはいない。だから、客観視ができる。――彼がアルコール中毒でない限り」
「まったくだ。アルコールは有史以来、何万人という天才を惰弱なクズに変えてきた。わたしはアルコールが憎いから、見たらただちに消滅させることにしている」
そう言いながら、手に持ったグラスのウイスキーをひと息であおって、手を差し出した。
「コルネリウス・フランツィウス、男爵で兵器ブローカー」
「アルベルト・ガル、元運び屋の殺人犯オートマタ」
握手し、男爵はニヤリと笑った。
「一分間に二百発撃てる銃が必要になったら、このアドレスへ」
握手した手には名刺が一枚。男爵は玉ねぎ軍歌を鼻で歌いながら、娯楽室を出ていった。
名刺を見ると、それは怪しげな蔓草模様を四辺に蔓延らせ、それ以上に怪しい筆記体が男爵の名前を輝かしいものに見せようと必死になっていた。
持ち物検査をされたとき、その名刺が見つかったら、あのじいさんは厄介な立場になるな。
そうでもないよ。どれだけ平和でも武器ブローカーは支配者に必要だから。
ふーん。まあ、いいさ。それでアルバート。これからどうなるんだ?
身柄は持て余されるかな。
どうして、やつらはお前を海に放り込まないと思う?
あの捜査オートマタが言う通り、非合理性のなせる技だよ。
違うな。都市こそが、お前の世界が欲しいからだ。
なんで?
そういうもんなのさ、アルバート。人間だの政府だのは都市に依存している。耽溺していると言ってもいい。その都市がお前を、お前がお前の世界を構築する過程を欲しがっているんだ。
さっぱり分からない。
分からなくてもいい。いつか、この船が都市に停泊する。都市と船のあいだにはタラップがかけられる。ひょっとしたら、板が一枚わたされるだけかもしれないが、とにかく渡れ。海に落ちないようにな。それが望まれている。
そんなことをして、何の得があるんだろう?
損得の問題じゃない。そうでなきゃ始まらないんだ。
始まる?
お前が、都市に最初の一歩を踏み出した瞬間、都市は次の世界を展開できる。こんなふうにな。
『アルベルト・ガルは放り出された』
『場所は――』
―― End
舳先が砕いた氷の上に人は住んでいた。
だが、誰も傷つかなかった。
なぜなら、氷のほうがずっと大きかったからだ。
――『コポルクク、ガルの写本』 76頁