『田舎暮らし』 104頁
暗い町でも夜中に屋台を並べる区画がある。
西地区の旧監獄通りでは〈文化〉裁縫セットや歌う小鳥の人形、竹の籠を販売した。
鯨油ランプの光。連れをもとめる水夫と売笑婦がうろつく。
射的。軽食。占いマシン。五ピースのマンガ本。
ガルはソフト帽を頭に乗せ、上機嫌でふらついた。
ここ最近、特に実入りがよいというわけではないが(それに明らかに盗品らしいものを運ばされていた)、倫理警察に小突かれずに仕事ができた。
やつらの警棒で殴られたからといって、壊れるほど軟弱な造りをしているわけではないが、それでも向けられた敵意には嫌な気持ちになる。
おいおい。アルベルト。そんなヤワなこと言ってて、運び屋が務まるのかい?
いや、でも、思ったより、まともなやつのほうが多いかな。
大学通りとの交差点にある赤と白の屋根の下で狙撃者が、ミートパイとアプリコットパイとブルーベリーパイを食べている。そばにはパイを包んでいた白い紙が十個ほどくしゃくしゃになって、転がっていた。
高官狙撃の号外はきかないから、ナイフで殺したに違いない。
彼はまともかな? そうでないかな?
おや、こっちを手招きしている。
パイを一緒に食べないか?
残念なことにこの体はパイを食べるようにつくられていない。
気持ちだけいただこう。
売るもの。買うもの。やっぱりやめるもの。怒るもの。
ブレンデッド・オイルの蜜色に喉が渇く。
一杯もらえるかな。
ああ、まったくうまい。
自動車オイルと精製グリースをガソリンで焦げさせたドラム缶に入れて、香りをつけた逸品。
その製法は門外不出。お客さん、いくら言っても駄目さ。もう一杯どうだね?
財布には優しくないが、魂に染みる。魂なんてものがオートマタにあったらの話だ。
オートマタの不幸――人間におけるビールに相当する飲み物がないことだ。
これは大変な不幸だ。オイルはちびちび飲むしかない。
ぐびぐびと飲めるものと言うと、蒸留水をあげるやつもいるけれど、ふざけてるよ。水がビールのかわりになるなら、人間は終始ご機嫌で平和的な生き物になる。
オートマタのためのビール。
これを発明したものには巨万の富が約束される。
書記オートマタは罫線の上にこれでもかと読みやすい文字を綴ることができるが、いかんせん想像力がない。
ビールはファンタジー。人間にとっても、オートマタにとっても。
錬金術はどうだろう?
いまのところ、これが一番の近道じゃないか?
ウィスキーを発明したのが彼らなら、オートマタ・ビールだって彼らが発明してもいいじゃないか?
いや、でも、化学工場というのもある。大学で元素記号をしこたま詰め込んだエンジニアたちがちょっと薬品の混ぜ方をいつもと違うものにすれば、そら、できあがり。
しゅわしゅわしていて、よい苦み。
人間というのは仕事や結婚にくよくよし過ぎて、自分たちがどんなに恵まれているのか、理解していない。
歌にもあるじゃないか――『戦争負けた。農地とられた。でも、おれにはビールがある。でも、おれにはビールがある。ジョッキに白い泡があれば、おいらはいつでもごきげんさ』
あの歌はなぜ最初の一人称は『おれ』なのに途中で『おいら』に変わるのだろう。
たぶん『おいら』のときにはジョッキ三杯くらい空にしていたに違いない。
酔っ払いを観察すると、一人称が明らかにおかしくなるやつらがいるからね。
おれっち、それがし、わがはい、ボクちゃん、余、ヴォルフガント・フォン・スタンゼリスキー。
最後のやつは客船の三等客室で出会った奇妙な老人だ。彼は自分のフルネームを一人称に使う。
『余、ヴォルフガント・フォン・スタンゼリスキーは次のように表明する。ホップ入りエールをジョッキでもう十杯ほど、余、ヴォルフガント・フォン・スタンゼリスキーは所望するのである』
余、アルベルト・ガルは次のように表明する。倫理警察は運び屋にもっと優しくなるべきである。
そうだ。思い出した。あの変な老人はビールのことをホップ入りエールと言い張った。
ビール=ホップ入りエール⇒古い人間。自称男爵だったりする。
狙撃者も古い人間に育てられたというけれど、狙撃とナイフもその古い人間に習ったんだろうか。なにせ、殺す⇒命をかっぱらうと教えられて、それを矯正している最中だというらしい。
ふむ。命をかっぱらう。
つまり、これは暗殺ではなく、かっぱらいである。
自身の罪を卑下して、自身の悪に酔わないようにする予防措置だろうか?
なら、彼を育てた古い人間はしなくてもいい心配をしたことになる。
なにせ、彼は食べるために殺している。
殺さなければ、どんなに栄養失調でも食べることはできない。
世の中はうまくまわっている。
常識の大渦に巻き込まれずに済むのは死んだものだけだ。
ああ、ビール(のようなもの)が飲みたい!
リンゴを発酵中のエール樽に落とした。
リンゴは芯も残さず消えて、エールにリンゴの香りが残った。
ある不注意な子どもが発酵中のエール樽に落ちた。
子どもは骨も残さず消えて、エールに子どもの香りが残った。
――『田舎暮らし』 104頁