イオ
あなたが誰と暮らそうとわたし、あなたを愛していたわ。
けれど、あなたはそうではなかったのね。
彼と深い関係になって早一年。最初は周りにバレたりしないかヒヤヒヤしたりもした。特に彼の妻には絶対にバレてはいけなかった。彼の妻はわたしの上司でもある。彼女はとても嫉妬深い人で、彼のことを愛しているくせにそれを微塵にも出さない人だった。そういうところに嫌気がさすのだと、彼はいつも零していた。ちなみに出会いの場を設けたのは彼女だ。ということは、少なからず彼女にも非があるのではないか。こじつけと言われるかもしれないが、彼の性格を考えればわたしと会わせるべきではなかった。
そしてわたしたちは出会い、恋に落ちたのだ。
けれど、終わりは突然やってきた。
出張中の彼女が突然帰ってきたのだった。いつもならわたしの部屋へとやってくる彼だったが、妻が出張で留守にすることを知りわたしを呼び寄せたのだ。それがいけなかった。そんな瑣末なことでわたしたちの関係は終わってしまった。
寝室にいるわたしたちを見た彼女は荒れた。あんなにわたしに愛を囁いていた彼は一転、妻に弁解を始めた。そしてわたしのことをただ胸の大きい牝牛だの、君の方が美しいだの言い出した。なんとも情けない。でもまあそれはそうだ。わたしを愛していたって妻を尊重しないといけないのだもの。
……そう思っていたのに。
気付けばわたしは彼女に追い詰められていた。後ろにいる彼をちらりと見れば気まずそうな顔で目を逸らした。
それが彼を見た最後。
わたしの目の前には灰皿を振りかぶった彼女の姿があった。
気が付くと、わたしは空気のように外を漂っていた。
目の前には彼の家。入りたいのにドアノブを掴むことが出来ない。驚いたことにわたしの体は透けていた。
わたしは死んだのか、それとも俗に言う幽体離脱というやつなのか。体があるはずの彼の家に隙を見て入ろうとしたが、どうしたって入ることが出来ず、わたしは街を漂った。
数十年後、体を失ったわたしが見たのは仲睦まじい老夫婦の姿だった。
このお話はギリシャ神話で、ゼウスの愛人であったイオが元です。