ランジュは二人と旅をすることに
モリオンが言った通り、鏡に映る自分は、別人とまではならないが、雰囲気が違って見えた。
これなら母が悪魔に連れ去られたと思っている人間たちに会っても、問題はないだろう。
フードで顔を隠さずに堂々と歩ける人間界は、ランジュにとって全てが新鮮で楽しい。直視できないほど眩しい太陽の光を浴び、光る水面に草木の香り。色もなにもかも、悪魔界とは違う。
だからこそ書を隠し入れているバッグを思い出すと、途端に重みを感じ、憂鬱になる。
しかし王の命令を無視することはできない、逆らえない。一方で書を人間に渡し利用されたらと考えただけで、恐ろしくなる。
悩んだ結果、ルフェーのように人が手に取れるような場所に本を置き、後は逃げた。
本を置く時は呼吸が乱れ、自分の心臓の音がやけに響いた。そんなランジュにとって、一日一冊が限界だった。
◇◇◇◇◇
(クランという人は本当に熱心ね。どうりで、悪魔界の皆から嫌われているはずだわ)
クランは一つの町や村に必要以上滞在せず、またすぐ別の場所へ向かう。一体なにが彼をこんなに動かしているのか、ランジュには分からなかった。
王からはクランが次の地へ到着するまでは、彼の滞在していた地で活動するよう命じられた。
「愉快であろう? 己が考えを改めさせたはずの地で、すぐに悪魔の書を使用した人間が現れたら」
そう言った時の王の目は細められ、面白がっていた。
その頃、モリオン家の子ども達の働きにより、悪魔の書を使う人間が増えたと王が発表した。ルフェーは感激していたが、ランジュは表情を変えず、その話を聞いた。
(それにしても、どこにでも似た人はいるのね)
広間に立つクランを見つめる観衆の中には、彼に忌々しそうな目を向けている者がどこにもいた。
(ああいう人に直接書を渡したら、使ってくれるのかも。だけどそうすれば、あの人の魂は……)
――――――悪魔に食われ、永久に消える。
それなのに、どうして願いを叶えたい人間は途切れないのか。それに父にしても、多くの悪魔が実際には、奪うのは魂だけとは限らない。
一度だけ会った、祖父母を思い出す。
紋様という見た目に騙された、愚かな夫婦と言う人もいるだろう。しかし彼らと同じ立場になった時、その人は冷静でいられるだろうか。
(結局領民は助かったけれど、祖父母は娘を二人とも失ったし……。悪魔の書なんて、不幸を招くような物なのに……)
悪魔の書を使いそうな人間を見つけても、気がつかない振りをし、クランを見つめる。
そんな時だった。少年が一人、隣に立ち、なぜかランジュの顔を覗きこんできた。
「お前……。やっぱりそうだ」
自分の顔をまじまじ見る少年の言葉に、ランジュは息が詰まる。
確信めいた言い方。母、ルジーを知っている? それとも母の双子の妹、リューナを知っているのだろうか。一体この少年は、何者なのか。目まぐるしく考える。
「お前、クラン様の追っかけだろ!」
「え?」
考えもしていなかった発言に、目を丸くする。
だがすぐに、クランを追いかけるよう移動している自分を知っているとは何者かと、警戒する。
幸いと言うべきか、ランジュは日頃から感情を顔に出すことが少ない。先ほどは失態したと内心で舌を鳴らすが、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「そう言う貴方は、誰?」
「俺? 俺の名前はセウル。クラン様と一緒に旅をしている男だ」
腰に両手を当て、ふんぞり返る少年の答えに、さすがのランジュも戸惑った。
クランに同行者がいるとは聞いていない。これまで広場に立つクランの側で、この少年を見たことがなかった。
「……本当に?」
「信じてくれないのかよ。そりゃあ俺には演説はまだ早いからって、こういう時は手持無沙汰でうろついているだけだけどさ。一度くらい、クラン様と一緒にいる所、見たことあるだろう?」
ここは慎重に返事をするべきだと、ランジュは己に言い聞かせる。この少年が本当にクランの旅の同行者なら、自分との会話が伝わってしまう可能性が高い。
「ないわ。だって私、クラン様の言葉にしか興味がないから」
「ふうん。それで広場でしか見かけないのか」
納得してくれ、ランジュは胸をなで下ろした。
後はどうやってセウルと名乗る少年と距離を取るか、それが問題だった。しかしまたもセウルの発言は、ランジュを驚かせる。
「それにしても、よくそんな軽装であの森を通ってきたな」
もちろん森など通っていないランジュは、なぜ疑問に思われるのか分からず困惑した。
“軽装”、そして“森”という単語。導かれる答えは、前回の町から今回の町まで、危険とされる森があるのだろう。それか広大なため、野宿が必要なのかもしれない。それならば、答えを決める。
「丁度ここへ向かう人たちがいたので、同行させてもらったの」
「その人たち、どうしたんだ?」
「さあ。到着してすぐ別れたから、知らないわ」
そうかと納得しているセウルを見て、ランジュは単純な少年だと思った。
(きっと、こういう人間が悪魔に操られてしまうに違いないわ)
見下すという訳ではないが、危機感の足りない人間とは思った。しかしそれは、セウルも同じだったのだ。
「あんた……。えっと、名前は?」
「ランジュ」
本名を告げた所で支障はない。逆に偽名を伝えては、それを忘れた時、自分の首を絞めることに繋がる。それならば端から、本名を伝えた方が良いと考えてのことだった。
「そうか。それでランジュは、クラン様の話を聞きたくて追いかけているのか? 一人で? 親とか家族は?」
「一人で旅をしているの。両親も家族もいない」
だが家族のことになると、話は別だ。正直に答える訳にはいかない。
「そうか、一人か。じゃあ、ちょっと来いよ」
セウルは無遠慮にランジュの手首を掴むと、引くように歩き出す。
初対面の相手、しかも異性に対して、なんと無礼なと声をあげかけたが、口を閉じる。
人間にとって、これが普通かもしれないと考えたからだ。もしそれが当たっていた場合、騒げば目立つ。それだけは避けたかった。
意思を確認されることなく、連れて行かれたのはクランのもとだった。
(こんなに近づいても、なにも感じないなんて……。やっぱり私は……)
その答えに、きゅっと口を結ぶ。
「クラン様、こいつが前に話した奴だよ。ランジュって名前で、一人で旅をしているってよ」
これから書を燃やそうと積まれた木々に、火が点けられた所だった。本物か真偽不明の書を持ったクランは、話しかけられたことにより、顔を向けてきた。瞬間、その目を大きく開く。
「……ルジー……」
信じられない。そんな思いが込められ、かすれた声で読んだのは、母の名前であった。
驚きで目を開きそうになったが、止める。かつて母がそうであったとは知らず、無表情の仮面をかぶり続け、さらには首をひねってみせた。
「あ、すまない。その……。君が知人に、どこか似ていたもので……」
(お母様は、布教使クランの知り合いだったの? でも家でクランの名前が出ても、ちっとも反応を見せたことがないわ。どういう仲だったの? そういえば……)
いつだったか、末の弟が叔母のリューナを騙すため、布教使に変身させてもらったと話していた。その布教使の名前が、クランだったではないか。
(姉妹で知り合い? 家族ぐるみ? 祖父母から私について、なにか聞いて……?)
ランジュの気持ちなどお構いなしに、セウルはクランに言う。
「それよりクラン様。こいつ、クラン様の話が聞きたくて一人で旅をしているんだって。だからランジュっていうんだけど、ランジュも一緒に旅をさせてやろうぜ」
なにを言い出すのだと声と表情にこそ出さなかったが、ランジュは叫んだ。一度深く呼吸し、なんとか声を出す。
「そ、そんな……。クラン様に、ご迷惑は、かけられません……」
「なに言ってんだよ。たまたま今までなにもなかったかもしれないけど、女の一人旅なんて危険だろ。そんな無茶するなよ」
「ランジュと言ったね。今のセウルの言葉は本当なのかい? 本当に君は一人で旅をしているのかい? ご家族は?」
「家族は、いません。一人で動いていて……」
なぜか二人からは心配の眼差しを向けられ、ランジュは混乱していた。そしてようやっと、気がついた。
(まさか……。人間の女性は普通、危険だからと一人旅をしないの?)
悪魔界では魔法という力があり、それは性別に関係なく、個に力を与えている。
だから魔法に自信がある者は、何歳でも性別に関係なく一人でも旅をするのが、悪魔界での常識だった。
人間が魔法を使えないことは、もちろん知っている。仮に人間界で使う時は、見られないよう注意をするようにとも、言われている。
魔法の使用を制限されていないため、ランジュは人間にはない魔法という力を持っているので、一人で旅をしていても問題ないという認識だった。
(ああ、なんて馬鹿なの! そうよ、人間の女性は魔法を使えない! 細くて腕力も弱い。そんな弱い、しかも子どもが一人で旅をするなんて、あり得ない! 危険よ!)
やっと二人の心配の意味に気がつき、失態に気がついた時は手遅れだった。
危険だったことを認め、さらには上手な言い訳が浮かばず、結局三人で旅をすることになってしまった。
その様子を悪魔界から、王は眺めていた。
「あっはっはっはっはっ。まさかお前のあの娘が、布教使と旅をすることになるとはな。配れず、ただ泣くだけだと思っていたのに……。くくっ、これはこれで愉快よ」
「もう少し人間について、知識を与えるべきでしたね」
モリオンは渋面となり、笑う王の側でそう答えた。