問答
連れ去られた時と変わらぬ姿に、アインとクランは我が目を疑った。なぜ? どうして老いていない? 戸惑う二人を檀上から見下ろしたまま、ルジーは言葉を続ける。
「神だって罪を犯した人間を、天の国へ迎え入れないでしょう? それと同じこと。ここは悪魔界。悪魔にとっての罪を犯した者は、悪魔界に迎え入れられないということよ」
「ルジー……。本当に、君なのか……?」
おぼつかない足取りで檀上に向かって来るクランの呼びかけに、ルジーは微笑むだけで答えない。
モリオンはルジーの腕をほどくと妻の肩を抱き、自分に寄せる。
「二人とも我が妻と再会し、どんな気持ちかね? しかし驚いたよ。まさかランジュを助けるため、悪魔界に来るとは。その根性だけは感服に値する」
「ルジーさん……。本当に貴女は……。ランジュさんの母なのでしょう? 母なら、娘を助けようと思わないのですか?」
アインから問われたルジーは一瞬、なにを言われたのか分からなかった。ようやく理解すると、吹き出す。
「母だから娘を助ける? おかしいことを言うのね。貴方だって、よく知っているでしょう? 母でも、娘に関心を向けない人間がいるということを。母親だからって、無条件に娘を愛せないことを」
「それは……」
ルジーは実母のことを言っているのだと分かり、なにも言えなくなる。
ルジーの母は、モリオンに狙われているのは彼女の妹のリューナと誤解し、リューナばかり優先させ、ルジーと向き合っていなかった。
そのことについて再三苦言申したが、受け入れてもらえなかった。そしてルジーが連れ去られ、ルジーとの思い出がなにもないと気がつき、彼女は激しい後悔に襲われた。
だがいくら後悔していると言っても、ルジーの心には響かないだろう。それほど彼女の心は傷ついている。その叫びは日記につづられ今も人間界に保管されており、アインも読んだことがある。
「ああ、でも誤解しないで。私だってこんなことになって、悲しいことは本心なの。でも長女は王からの命令に喜び、それを使命だと張り切って悪魔の書を配っている。それなのに……」
その長女がグログの言う、ランジュを嫌っている姉なのだろう。ずい分とランジュと性格が異なるようで、相容れないようだ。それはまるで、親の代から続く因縁のようにアインには思える。
「二女のランジュったら……。普段は無表情を貫き、この世界に溶けこもうと頑張ってはいたけれど……。それだけだった」
「その頑張りを否定して、殺すって言うのかよ? それでも母親かよ!」
ルジーと初対面のセウルにとって、モリオンの隣に立つ者の過去について仔細までは知らない。ただ人間の感覚として、ルジーの考えが理解できなかった。そんなセウルに向け、優しく教えるようにルジーは言う。
「坊や、人間を一括りで考えては駄目なの。言ったように、ランジュの頑張りは評価していたわ。けれど私は、悪魔界の大公、モリオンの妻。大公の娘が悪魔界を裏切るなんて、有り得ない。許されないことよ」
断言するルジーの姿に、どこまでもこの会話は平行線で、互いに理解できないとアインには分かった。人間として母親の情へ訴えることは無理だろう。それならば、と提案をすることにする。
「ルジーさん。私は貴女が幸せなら、それで構いません。ですが、どうかランジュさんを許してあげて下さい。私がランジュさんを保護し、二度と悪魔界へ関与させません。だからどうかそれで、許してもらえないでしょうか」
「父さん! ルジーも連れ帰るべきだ!」
なにを言い出したのかと、アインは驚いた。さらにクランは畳み掛けるように、口早に言う。
「ルジーとはこれを逃せば、もう二度と会えない! 今こそ、彼女を助けるべきだ!」
「クラン、なにを……」
ルジーと再会するとは思わなかったが、それにより、クランは目的を見失ってしまったようだ。本来はランジュを助けるためだけに、乗りこんだというのに。今のクランはルジーしか見えなくなっている。
「助ける?」
眉をひそめるルジーに構わず、クランは言葉をつむぐ。
「そうだ、君は人間だ。君の両親はあれから深く後悔し、やり直したいと今でも願っている。だからどうか……」
「嫌よ」
懇願し手を差し出すクランを、ルジーは冷たく突き放す。迷いのない答えに、クランは固まる。
「あの人たちがどう思おうと、私には関係ない。私の家族は旦那様だけ。私は今、旦那様と幸せに暮らしているの。それなのに、なぜ我慢して人間界であなたたちと暮らさなければならないの? 貴方の願望を私に強制しないでちょうだい」
「幸せ? 悪魔と暮らすことが?」
信じられないと頭を振るが、ルジーは満悦の笑みを見せる。
「ええ、幸せよ。人間界で暮らしている間、一秒でも早く、旦那様のもとに嫁ぎたかった。でも本当に連れ去ってくれるか不安で、薬指に現れる旦那様からの印だけが心の頼りになっていたわ」
その頃を思い出しながら、ルジーは自分の左手薬指を見つめる。今では刻まれた紋様の上に、モリオンと揃いの指輪がはめられている。一瞬光った指輪が、ルジーの幸せを象徴しているようだった。だがその光は、クランにとって絶望でしかなかった。
「良いから、ランジュを離せよ!」
比べてセウルは初対面のルジーより、ランジュしか目に入っていないといった様子を見せる。
「ランジュは自分を人間に近い存在だって言っていた! だったらアイン様が言う通り、このまま人間界で、今まで通り過ごさせれば良いじゃないか!」
この場で一人、年齢相応で駄々っ子のように叫ぶセウルを見て、アインも初心を忘れるなと己に言い聞かせる。特に今はクランが自身と折り合いをつけている最中。尚更自分がしっかりするべきだと己を叱咤する。
「それはお前の理屈だ、人間の子よ。ランジュは悪魔界の住人だから、この世界の法により罰せられる。当然だろう?」
「だから! ランジュは!」
なおも歯向う姿にモリオンは笑う。
「ははははは。ランジュに向かって、悪魔だと叫んだのは誰だったか忘れたのかね?」
モリオンの指摘に、セウルは息を呑むと俯く。
「ランジュの髪を掴み、化け物と言ったのは誰だ?」
檀上とは距離がある。それだというのに、まるで目の前にモリオンが立っており、自分を見下ろしている感覚にセウルは陥る。
「それが今度は人間のように扱え? 助ける? 人間の子よ、それを我が儘と言うのだよ」
「………………」
もはや反論できない。
連れ去られたから後悔した。逆に言えば、連れ去られなかったら後悔せず、ランジュに対して怒りを抱いたまま、教会で過ごしていただろう。
しかし今はランジュを助けたい、あの日の暴挙を謝罪したい。けれどランジュを一番傷つけたのは、自分だ。
「娘を悪魔と断言したのは、お前だろう?」
押し潰されそうな威圧に、黙る。恐怖からによる理由だけではなく、顔色を無くしていく。それを見ていた王が愉快そうに言う。
「そんなにいじめてやるな、モリオン」
それから嘲笑も聞こえる。両耳を塞ぎたかったが、それを許される立場にないと堪える。
「人間が我が儘なのは昔からだろう。悪魔の書を使って願いを叶えながら、対価を払うことを拒む。人間が人間の店で商品だけ持ち逃げれば罪人として捕まるのに、悪魔が相手なら神も許してくれると、なぜ平気に思うのか。なあ、なぜだ、教皇アイン」
よく見ると壇上には椅子があった。そこに王は腰かけ、ゆったりと、堂々とした動きで足を組みながらアインに尋ねる。
「……少なくともルジーさんの祖父、メジスさんは、己の魂を払う覚悟がありました。自分の命で、大勢が助けられるのなら、自分の命は安いものだと。しかし伝承と異なり、花嫁を要求されたので抗おうとされたのです」
「馬鹿らしい。伝承が絶対とは限らないだろう。それを勝手にそうだと決めつけ、それに逸れたから道理を乱す? 教皇、これでは悪魔とはなにかという議論から始めるべきだと思わないか? こちらは契約通り仕事をしたというのに、身勝手に支払いを拒否し神に助けを求め……。それが神の教えなのか? 本当に神も許すと思っているのか?」
確かに当時、花嫁として孫娘がさらわれることを良しとせず、皆で契約無効となる方法を探した。
だが王の言う通り、大勢を助けてもらいながら、支払いから逃れようとしていた。支払い方法が想定していたものと違うという理由をつけ、しかもそれを正当化していた。
「……メジスさんは」
「あの男が自分を犠牲にしようとしていたことは、認める。だが、メジス以外の代償は払いたくないと拒むのは、どういう理屈だ。確かに多くの悪魔は対価とし、契約者の魂を求める。だが何事にも例外はある。その例外を受け入れないのか? 例外だというランジュは、受け入れると言うのに」
厳しい言葉が続く。反論しようとするのは、人間の過ちを認めたくないからか。それとも相手が悪魔だからなのか分からなくなる。それでも聖職者として、アインは引くことはできない。
「……契約者以外を求めるのであれば、抗う理由になると思います。それを許せば、誰もが他人の命を対価に好き勝手しかねません。それは無秩序の世界となります」
「だけど私は旦那様に選ばれて幸せなの。貴方たち、そろそろ自分の価値観で他人の幸せを決めつける癖、止めてくれないかしら。まるで私が旦那様の花嫁になることを拒んでいたように聞こえ、不快だわ」
それを聞いて一番衝撃を受けたのは、やはりクランだった。
もともと日記は読んでおり、彼女が花嫁になることを望んでいたと分かっているつもりだが、本人の口から直接聞かされると、重みが違う。
「ルジー……。君は、悪魔に洗脳されているのか……?」
クランはここにきても信じないと言わんばかりに、言葉を漏らす。
「洗脳? まさか」
「ご両親の愛情を求めていた頃があったじゃないか。本当にその思いは、少しも残っていないのか?」
「残っていないわ」
ルジーにとって、馬鹿らしい問答だった。
(この人、完全にずれているわ)
なにも分かっていないと呆れる。自分の良いように話を曲げて、人の話を聞こうとしない。変わらない、くだらない人間。どうしてこんな男に妹は惹かれていたのか、理解できない。
(これが人間で言う、優しい人? それともお人好し? こういう人が人間は良いのかしら)
どちらにしろ、改めて妹とは男の趣味が合わない。そしてもし妹が普通なら、やはり自分は生まれる世界を間違えたのだと思う。
「ルジーがモリオンと結婚し、幸せな日々を送っていることは保障しよう。間違いなくこの二人は互いを愛し、大切に思い合っている。悪魔界でも有名なおしどり夫婦だ」
そう王に断言され、ルジーは喜び頬を染め、モリオンと見つめ合う。
外見が十六歳のままなので、年若い乙女が恋をし、愛する人の隣で幸福しか感じていない光景がそこにあった。二人の間に、入りこむ隙間はどこにもないと分かる。
「クラン……。ルジーさんの意思は固い。ルジーさんは本当に今、幸せなのでしょう」
クランへ諦めるようにと肩へ手を乗せるが、未練を捨てきれず、納得していないことに義理の父親とはいえ、息子のことなので分かっていた。それでも諭すように続ける。
「ここでルジーさんを無理に連れ帰っては、今度は私たちが彼女を連れ去ったことになります。ですが、ランジュさんは違います。ランジュさんは悪魔の書を配ることを拒みたかった。人間界の生活を謳歌していました。どちらの生活が彼女にとって幸せなのか……。あなたたちも分かりませんか?」
「ふむ……」
アインの言葉に顎に手を当て、一考する素振りをモリオンは見せるが、誰が見ても下手な演技のようにわざとらしいものだった。
「確かにランジュは人間界の方が口数も多かったし、表情も豊かだった。だが私の血を継ぐ子なのだ。この世界で生まれ、この世界で育った、悪魔界の住人だ。やはりこの世界の道理で裁かれることが当然だろう」
「私は旦那様に従います」
「ルジーさん、お願いです。どうか……。どうかランジュさんを助けて下さい……」
必死に訴えても、ルジーは表情を変えない。悪魔側は誰も、意見を変える気がないようだ。
打っても響かない。素通りしている。そんな空虚に似た思いを味わっていた。挫けそうになるが、それでも諦める訳にはならないと、アインはぐっとローブの下のモノを握りしめる。
「だがモリオンも言ったように、この城まで来たことは褒めてやる。そこでだ。勇敢なお前たちに褒美をやろう」
宣言の直後王が指を鳴らすと、ランジュを包んでいた髪の毛がほどけていき、全身が解放される。だが両目を閉じ横たわったまま、ぴくりとも動かない。
「ランジュ! ランジュ、目を覚ませ!」
「ランジュさん!」
必死に呼びかけるセウルとアインに応えたのは、王だった。髪の束を尖らせ、ランジュの腹部を刺した直後、傷を手当する。一瞬のことに三人は、叫ぶこともできなかった。
「ん……」
小さな声を漏らすとランジュは瞬きを繰り返し、体を起こす。




