35)変化3
翌日、ハインリッヒとアリエルは、二人でチェスを指していた。
「全員の前であんなことをするな」
「膝に座ったことですか。私も驚きましたけれど」
「団長のおっしゃる通りとも言えるが、あの方は思い込みが激しいと聞く。お前が危ないぞ」
「あの方、当ててもいいですか」
アリエルが言い、チェスの流れを無視した駒を手にした。
「この方ではないですか」
アリエルの手にあったのは女王、クイーンの駒だ。
「お前は、頭がいい」
肯定するわけにはいかない。口止めされているのだ。妹の身が危なくなる。
「おほめに預かり光栄です」
アリエルは駒を戻した。
「正直、面倒ですね。私が言うのも何ですが、女は面倒な生き物ですから」
「はっ、お前は半分男で半分竜だろうが」
ハインリッヒは悪態をつきつつ、駒を動かした。
「なんですか、それ。あと、私、チェックメイトです」
アリエルの駒がキングを捉えようとしていた。
「あ」
その日、ハインリッヒはアリエルに初めて負けた。
夕食後、執務室でアリエルの淹れた茶を二人で飲む習慣は変わらない。変わったのは、ルートヴィッヒがアリエルを膝に座らせることだけだ。
「あの団長様」
「呼び方」
「ルーイ、恥ずかしいのですが」
「誰もいない」
「そうですけど」
「書類がたくさんあります」
「ベルンハルトのせいだな」
「お仕事しませんか」
「一杯目を飲み終わったらする」
「団、ルーイ、お代わり淹れてあげますから、お仕事しましょう。明日もあなたは鍛錬です。遅くなって疲れてはいけません」
「疲れない。もうちょっとで飲み終わる」
ルートヴィッヒは残りの一口を口に含んだ。
「残念だ」
書類仕事が大量にあるのは事実だ。ベルンハルトが容赦なく回してくる。
「ベルンハルトもいいかげん、宰相を置けばいいのに」
ルートヴィッヒは、ベルンハルトに何度も宰相を置けと訴えたが、常にはぐらかされている。
「何故、私が宰相の真似事をしている」
「ルーイ、お仕事の時間です」
アリエルが、書類に目を通している。俯き加減のためか、首筋が見える。
「贅沢だな」
あの首に触れたい、素肌に触れてみたいと思う。最初は側にいてくれるだけでよかった。結婚できないというのに、側にいてくれると言われただけで有頂天だった。それが今は、それだけでは物足りない自分がいる。
「経費というには、ちょっと嵩んでますよね」
全く通じていないのに、アリエルは同意してくる。
「まぁ、そうだな」
危険がないわけではない。それでも日常は何事もなく過ぎて行った。
ハインリッヒの立場も、それなりに理解されたのだろう。団長が良いならば仕方ないというように、生じていた溝は徐々に埋まっていった。
ルートヴィッヒによく似た護衛騎士は、仲間の護衛騎士を引き連れ、月一回程度訪れるようになった。鹿一頭を持ち込まれることはなかったが、ウサギ五羽はあった。いきなり持参され驚いた。アリエルは、ハーブを使ってあらかじめ肉の臭みを消してから焼き、ワインと野菜を入れて煮込んだ。全員に好評だった。ウサギの解体は、狩猟の経験がある竜騎士と護衛騎士達がやってくれた。
五羽のウサギの毛皮は、料理の礼にと、アリエルの帽子と襟巻と手袋になって、後日兵舎に届けられた。
「あの分では、来年あたり鹿が来そうだ。ベルンハルトは好きだからな」
「初めてで、料理方法もわかりません。せめて、あらかじめ少しお肉をいただいて、どう料理するか考えさせていただきたいです」
「アリエル、それをベルンハルトに聞かれたら、ここに肉が届くぞ」
数日後、執務室にやってきたエドワルドが言った。
「竜丁の作った鹿の料理を食べてみたい」
商人が、王宮からだといって、鹿肉を届けてきたのは、その翌日だった。
「絶対に、ベルンハルトがエドワルドに言わせたな」
「でも、考え方によっては、美味しいものが食べられるってことですよね。二、三回練習したいと言いましょうか」
「随分たくましいな、お前は」
「ところで、今日の鹿のお味はどうでした」
誰もいないことを確認してから、ルートヴィッヒはアリエルに口づけた。
「幸せだ」
真っ赤になったアリエルに、ルートヴィッヒはもう一度口づけた。手元にある小さな幸せを抱きしめておかないと、高望みしそうな自身を自覚していた。
王都にも雪の日が増えた。
「そのうち積もるな」
ルートヴィッヒは、雪は好きではない。憂鬱な気分になる。吹雪の中で飛ぶ訓練もするが、危険で疲れる訓練だ。飛ぶのが好きなルートヴィッヒですら、飛ぶのが嫌になるほどだ。
「明日の晩は温かいものを用意しておいてくれ」
「わかりました。でしたら、北でもらった干し肉を使いたいのですけど」
「明日、お前が朝、掃除に行くときに、地下へ行こうか。兵舎の出口で待っている。暖かくしておいで。地下は冷える」
「はい」
穏やかに、冬の日々は過ぎて行った。