8)エドワルドへの策略1
木陰で二人、向かい合っていた。ハインリッヒは、エドワルドの護衛騎士の一人であるクラウスが、チェスが強いらしいという噂を聞き、試してみたくなったのだ。
「チェックメイト」
クラウスは噂通り、なかなかの腕前だったがハインリッヒは辛くも勝利した。
「いや、お強いですね。お噂はお伺いしておりましたが」
少し悔しそうなクラウスに、ハインリッヒも悪い気はしなかった。実際、クラウスも弱くはなかった。彼ならば、故郷で家督を継いだ兄ともいい勝負ができるだろう。
「噂になるほどの腕ではありませんが」
「いや、後宮に妹君がおられますよね。マーガレット様には、時にお相手を務めさせていただくのですが、兄は強いとおっしゃっておられます」
「そうですか」
後宮に勤める妹も、チェスが好きだ。子供の時から、家族でチェスをしていた。その妹のチェス相手を、今はクラウスがしていると聞き、ハインリッヒの胸の内から勝利の喜びが消えた。
「チェスか」
エドワルドが試合を終えた二人の盤面を見つめていた。
「ハインリッヒが勝ったのか。強いな」
「おほめ頂き光栄ですが、団長には、まったく敵いません」
何せ勝てたためしがない。いいように転がされて終わるだけだ。そんなルートヴィッヒは、ベルンハルトには敵わないと苦笑していた。
「ベルンハルトに言わせると、私は顔に出るらしい」
あの表情の乏しいルートヴィッヒの顔に、何が出るのか。付き合いの長いはずのハインリッヒですら首を傾げたことを思い出す。
「チェスの何が面白いんだ。負けてばかりでつまらない」
確かに年長者ばかりで、竜騎士だ、護衛騎士だ、貴族だとチェスが嗜みとされる人が、エドワルドの周りには多い。みな勝負にこだわる連中だから、チェスとなると、相手が子供でも、エドワルドに負けてくれる人は少ない。
「殿下、チェスは貴族の嗜みの一つです。定石を覚えてから勝負が始まるようなもの。殿下の御年齢では、チェスの深みがお分かりになるには、時を要するかと思われます。まずは、クラウス殿のようにお上手な方に、練習相手になっていただいたらよろしいのですよ」
「皆そう言うけどな」
エドワルドは、駒の一つを取った。
「つまらない」
クラウスが何か考えていた。
数日後のことだ。
「ハインリッヒ様」
ハインリッヒの目の前に、ここ一年近く、彼の頭痛の種となっているアリエルが立っていた。
「お願いがあります。チェスを教えてください」
「チェス?」
黙れというつもりだったが、口はそう言ってくれなかった。チェスはハインリッヒの趣味の一つでもある。
「チェスは貴族の嗜みの一つ、ですよね」
確かに、負けてばかりでつまらないと拗ねるエドワルドに言った覚えがある。
「定石を覚えて、それから勝負は始まる。上手な人に練習相手になってもらいなさい。ですよね」
それも、エドワルドに言った。その場には護衛騎士のクラウスがいた。
ハインリッヒは、エドワルドが剣の稽古に熱心になったきっかけを思い出した。クラウスにしてやられたことに、ハインリッヒは気づいた。チェスには勝ったが、何かに負けた気がする。妹とチェスを指すといっていた男だ。すさまじい敗北感が、ハインリッヒの胸の内に湧いてきた。
「私、殿下に負けるわけにはいきません。教えてください」
「なぜ私に」
「上手な人に練習相手になってもらいなさい。と、おっしゃったそうですよね。ハインリッヒ様がお強いと聞きました」
「団長のほうが強い」
「ハインリッヒ様。私は殿下に勝ちたいのです。勝負に強く、教えるのが上手なのは、ハインリッヒ様と、皆に言われました」
確かに、ルートヴィッヒは強いが、初心者のチェスに付き合ってやるような男ではない。
「まずは、殿下に確実に勝てるようになりたいのです。そして、いずれ強くなった殿下が、私に勝つのです。最終的に、私は、殿下が団長様に勝つのを見守るのです」
アリエルの口調からは、並々ならぬ決意が感じられた。
お前は殿下の姉か母親か。口元まで出かかった言葉をハインリッヒはこらえた。
「定石は覚えたか」
「団長様から本をいただきました。勉強しています」
確かに、アリエルの持っている本は、皆が最初に参考にするものだ。
「まぁ、どのくらい覚えたか見てやってもいい」
「ありがとうございます」
アリエルが嬉しそうに微笑んだ。
「お礼といっては何ですが、今後、ニンジンに関してはできるだけ考慮いたします」
「そうか」
あまり期待せずにハインリッヒは返事をした。
後日。アリエルが本当に、ハインリッヒの分だけ、別の鍋でつくりニンジンの風味すらない料理を用意してくれていることを知り感謝した。もっとも、その同じ鍋で豆の入っていない料理をルートヴィッヒのために作っていることを知り、感謝したことを後悔もした。




