3)氷雨
王都到着まで後少しとなった日、早めに休憩をとることにした。天候のせいだ。季節外れの氷雨が降ってきた。冷たい雨と氷は体温も体力も奪う。歯の根も合わないほど震える部下を叱咤激励し、どうにか目的地に着くころには、団長であるルートヴィッヒも、竜も竜騎士達も疲れ果てていた。
ルートヴィッヒは、アリエルを毛布で包み、さらに外套で覆って飛んだ。アリエルを少し濡れさせてしまったが、ずぶ濡れは避けることができた。
砦に着くと、アリエルは、自分は比較的大丈夫だからと、白い息を吐きながらも、動き回り、火を熾し、湯を沸かし、温かい料理を作ってくれた。濡れた服は、体を冷やすからと、服を干す場所も用意してくれた。その日は、数人ずつまとまって竜を風よけに眠ることになった。竜と寝ると暖かい。何度も竜舎に逃げ込んだ、ルートヴィッヒの経験が役に立った。
ルートヴィッヒが部下を見回り見張りを確認し、トールのところに戻ると、丸まったトールにちょうど収まるようにアリエルが寝ていた。
「トール」
囁いたルートヴィッヒの声に、トールは少し目を開けたが、すぐに閉じてしまった。目を覚ます様子のないアリエルに、予備の外套をそっとかけてやった。
「特等席を、お前に取られたな」
ルートヴィッヒがアリエルに囁いても、寝息が答えるだけだ。ルートヴィッヒは子供の頃、夜は竜舎に逃げ込み、トールの檻の中で寝た。丸まったトールの腹に寄り掛かると、翼でそっと隠してくれた。同じ場所に今はアリエルが収まっている。
トールの頭を無理やりのけて、トールの前足にもたれ、アリエルの寝顔を見た。
月がアリエルを照らしていた。寝息に耳を澄ませながら、そっと白い頬に触れた。滑らかで柔らかい。触れた唇は柔らかく、ゆっくりと温かい呼吸が漏れていた。
夜、見張り以外は寝静まっていた。
昼間、アリエルは誰にでも微笑みかける。笑顔で話しかけたら、人は思わず笑顔で答えたくなるものだ。楽しそうな声がよく聞こえてきていた。アリエルの笑顔は惜しげもなく誰にでも向けられる。竜丁と呼べば笑顔で答えてくれる。
眠っていることを確認し、声に出さずに名を呼んだ。名前を呼んでみたかった。呼んだら、どんな風に返事をするだろうか。名前を呼んでほしかった。どんな声で、呼んでくれるだろうか。何度目か、頬を撫でた時、微かにアリエルが動いた。手を止めて寝息に耳を澄ませた。
明日の出発は早い。眠らなければいけないが、こうやって顔を眺めていられるのも、眠っている今くらいのものだ。艶やかな髪の毛をそっと指先にすくうが、目を覚ます様子もない。その髪にそっと口づけた。
昼間、トールの前に乗せ飛んでいる時、アリエルはくるくると表情を変える。ずっと見ていたいが、トールを操らねばならず、時折見るくらいしかできない。
腕の中の身体は柔らかく、ルートヴィッヒの腰に手を回したり、胸にしがみついてきたりと、こちらの気も知らず、好きなようにしている。
腕の中の柔らかい身体、首から覗く滑らかそうな肌に触れてみたいと何度思ったことか。艶やかな髪が、時々顎をくすぐった。
目を覚ましている時に、頬に触れたらどんな顔をするだろう。髪を撫でたら何と言うだろうか。
「重いな」
トールが頭をルートヴィッヒに乗せてきた。邪魔なのだろう。ルートヴィッヒが立ち上がると、トールは元のように丸くなった。
「酷いやつだ」
ルートヴィッヒは、アリエルとは逆の側で、トールに背を預けて座った。竜丁として、傍らに置き続けているが、本来ならば、誰かに嫁がせるべき年齢だ。アリエル自身が、竜丁として働くことに何も言わないことを言い訳に、手元に置いてきた。
常に優しく微笑み、他人のために一生懸命な娘。
自分のところに置いておきたい。仕事も出来るから、手伝わせている間、ずっと隣にいても不自然ではないだろう。自分自身への言い訳であることもわかっていた。
誰かが見ているはずがなかった。季節外れの氷雨の中、竜と人の体力が続く限り飛んでいたのだから。ハインリッヒが薄く目を開けていたことなど、ルートヴィッヒは気づいていなかった。




