25)信条
自分がどんな顔をしていたのか、ハインリッヒにはわからなかった。
「一つだけ聞きたい。お前ではないよな。違うといってくれ」
互いに見習いだったころから知っているルートヴィッヒは、思いつめたような顔をしていた。
「違います。そもそもそんなことをする理由もない。それに見つからずに往復など不可能です」
「あぁそうだな。すまない。よかった。違うとは思っていたけれど、万が一、お前だったらどうしようかと。お前自身に違うと言ってほしかった」
張りつめていたルートヴィッヒの表情が緩んだ。だが、ハインリッヒは心穏やかではなかった。
「今でも、か」
思っていたより苦々しい自らの声が耳を打った。男爵家の次男として、どこかの貴族の婿養子になると思っていた。なりたくもなかった竜騎士になったのは、父の命令だった。第二王位継承権保有者であるルートヴィッヒが竜騎士になる前に、殺す。同じ見習いとして、お前は近くにいろ。当主である父に逆らうことなどできず、竜騎士見習いになった。
父達が殺すと言っていた王子は、物静かな男だった。ほとんど口を開くこともなく、表情もなかった。指導にあたる竜騎士たちの、不公平な扱いにも文句ひとつ言わず従っていた。父からの指令通り、何度も彼が夜一人になるように仕向けた。父やその仲間が仕掛けた刺客達は、彼に全く歯が立たなかった。
無口な王子、ルートヴィッヒは、ゲオルグ団長を始めとした竜騎士団幹部たちに庇護されるようになった。瞬く間に頭角を現し、竜騎士となった。
ベルンハルト国王の即位した日、すでにルートヴィッヒが王位継承権を放棄していたこともあり、ハインリッヒは父の命令から自由になった。宴に興じる王宮を遠く見ながらルートヴィッヒは感慨深そうに語った。
「ベルンハルトの即位まで、生きられるとは思っていなかった」
ハインリッヒは、自分が王妃派の父に命じられて、竜騎士見習いになったことを告げた。ルートヴィッヒが竜騎士になる前に殺すためだったと、告白した。罵倒くらいはされるかと思っていた。
「多分、そんなことだろうと思っていた」
ルートヴィッヒに驚いた様子はなかった。
「貴族の顔と家名はだいたい覚えている。特に王妃派は、出来るだけ把握している。君は、お父上にお顔がそっくりだから、家名を聞く前にわかった」
唖然としていたはずの自分に、ルートヴィッヒは、少し口角を上げた。
「君には君の事情がある。私は国王陛下を、ベルンハルトを裏切るつもりは微塵もない。彼に対してやましいことなどひとつもないし、今後も無いつもりだ。ただ、私を殺さないでいてくれるとありがたい。せっかく竜騎士になれた。私は、彼の剣であり盾である王都竜騎士団の一員でありたいと思っている」
ハインリッヒは、昼間、竜騎士見習いの訓練場を刺客が襲った日のことを思い出していた。ハインリッヒは、父からの命令通り、刺客に捕らわれた。ハインリッヒの喉に突き付けられた短剣を見て、ルートヴィッヒは剣を手放した。すでにあの時、彼は、ハインリッヒが王妃派と知っていたのだ。
「だったら、あの時、なぜ剣を捨てた」
ハインリッヒが王妃派と知っていたなら、刺客の脅しが詭弁だとわかったはずだ。明るく輝く満月に照らされた王宮を見るルートヴィッヒは静かだった。しばらく考えて、ようやく何のことか思い出したらしい。
「刺客に君が捕らわれた時のことか。あの刃は何か塗ってあるようだったから、危ないと思った。それに、刺客が依頼主の筋通りに動くとは限らない。標的を間違えることもあるくらいだ。あまり信用してはいけない」
淡々と語ったルートヴィッヒは表情を厳しくした。
「ベルンハルトが満月を選んでくれたのに、今日という日に無粋な連中だ」
言い終わる前に、ルートヴィッヒは、物陰に身を隠していた。
「君はこのまま竜騎士でいるつもりか。君のお父上やお仲間の御意向は知らないが、別にこのまま私を見張っていてもよい。だが、君は、他の道を選ぶほうが、ご家族は安心されるのではないだろうか」
自分自身の命に淡泊なルートヴィッヒの、情の厚さをハインリッヒは知った。
影から影へ移動しながら、刺客を仕留めていくルートヴィッヒが見えた。先手を打たれた刺客達が浮足立っていた。先輩である竜騎士たちの姿も見えた。
ハインリッヒが、自らの意思で、王都竜騎士団の竜騎士になると決めたのは、あの日だった。
「まだ、あなたは私が誰かの手先と思っているのか」
すでに父は当主の座を兄に譲り、隠居していた。ルートヴィッヒは、史上最年少の王都竜騎士団団長となった。彼の実力を知らない貴族達は、王族であることと、騎竜トールの影響だと陰口を叩いた。すでに、その前年の、竜騎士の御前試合から、彼は負け知らずだった事実を、貴族たちは忘れたかのようだった。
ルートヴィッヒは騎士達の御前試合にも担ぎ出されたが、騎士団長達を抑え優勝し、陰口を叩く者も減った。
御前試合後の祝賀会での、国王の一言の影響もあったろう。
「みな、忘れているようだね。ルートヴィッヒ・ラインハルト侯は、彼自身の意向とは関係なく、とても実戦経験が豊富だよ。何せ、幼いときから、刺客相手に実戦経験を積む機会には、事欠かなかったからね。彼以上に、実戦経験のある者はこの国にいないのではないかな」
そういったときのベルンハルトの笑顔には凄みがあった。
「この国の貴族は、随分と沢山の資産をそのために使ってくれた者が多いというしね。まぁ、おかげで後ろ暗い仕事をする連中をルートヴィッヒが片付けてくれたから、私も枕を高くして眠れるよ」
明るく笑って見せるベルンハルトと、無表情のルートヴィッヒと、よく似た顔の全く違う表情は、本当に恐ろしかった。
「一緒になって、試し切りをしておられたのは、陛下であらせられますが」
「嫌だなぁ。子供の時の素行不良を、今更ここで言わなくてもいいだろうに。ラインハルト候は、私の大切な、最も信頼する私の剣と盾だ。みな、心せよ。彼への攻撃は私への謀反だ。それが分からない者は、この場にいないだろうね」
あれほど恐ろしい笑顔はなかった。後に父は語った。あの日、多くの貴族が、過去の清算のため、代替わりをした。すべてを知りながら、自らが国王となる日を、ルートヴィッヒが実力を示す日を、待っていたベルンハルトの怒りを感じたからだ。
最強の竜騎士。その名をほしいままにするルートヴィッヒの信奉者は増えていった。その彼の傍らで副団長として存在する自分を誇らしく思った。
「ハインツ個人のことは信頼している。でも、君にも家族がいる。このままだと、いずれ君が困るのではないか」
ルートヴィッヒはそう言って、他の竜騎士団に行くようにと、何度もハインリッヒに勧めた。
「陛下や私やハインツ、君の意向で、物事が決まるわけではない。竜騎士のままでいるなら、他に行ったほうがいい」
ルートヴィッヒの勧めは、ずっと断っている。あの時の見習いで王都竜騎士団所属となったのは、ルートヴィッヒとハインリッヒだけだった。大半が、竜騎士になることを、断念した。
ハインリッヒも饒舌ではない。だが、表情にも言葉にも乏しいルートヴィッヒを、同期として支えられるのは自分だけだと思っていた。侯爵派と呼ばれるようになった旧王妃派には、ハインリッヒはルートヴィッヒが不利にならないよう、情報を選んで伝えていた。
「私は、何よりも、王都竜騎士団の副団長だ」
ハインリッヒの声を聴く者は誰もいなかった。
「私の自惚れか」
同期として、信頼されていると思っていたのに、真っ先に疑われるなど思っていなかった。ハインリッヒは唇を噛んだ。




