12)帰路
帰路、アリエルは遠慮したが、結局ルートヴィッヒの膝を枕に横になった。
「寝ろ」
ルートヴィッヒは、その手でアリエルの目を覆ってしまった。
「馬か」
アルノルトは苦笑した。そのうちにまた、アリエルは寝息を立て始めた。
「馬車にここまで弱いとは知りませんでした」
ルートヴィッヒは、ゆっくりとアリエルの頭を撫でていた。
「乗せないのか」
「前は、私と一緒にトールに乗りましたから。初めて馬車に乗せませした」
「乗せるのか」
「トールがですか。乗せます。嫌がるそぶりも一切ありません」
騎竜の乗り手は、一人きりのはずだ。
「珍しいな」
「トールの気に入りです」
ルートヴィッヒの手は、変わらずアリエルの頭を撫でてやっている。お前の気に入りだろうという言葉を、アルノルトは口にできなかった。
途中、アルノルトが勧める店に食事に寄った。蒼白なアリエルを見て店主が、スープを勧めてくれ、休むための部屋まで用意してくれた。
「男の基準で移動させられちゃねぇ。女の子にはつらいだろう。お嬢さんも可哀そうにねぇ」
明らかに聞こえるように言った女将の声に、男二人と男の子は顔を見合わせた。
帰りの移動中も、ほとんどアリエルは眠り続け、王宮に着いても起きなかった。護衛に伴われて帰るエドワルドを、アルノルトと、眠ったままのアリエルを抱いたルートヴィッヒは見送った。
「ずいぶんとよく寝るな」
「大食漢が突然六人も増えたから、仕込みが大変なのでしょう」
ルートヴィッヒの言葉に思い当たることのあるアルノルトは苦笑いした。
「旨いから仕方ない」
「今日は、店を教えていただきありがとうございました」
「いや、飯のお礼と、竜への言い訳だ」
アルノルトは微笑み、表情を変えた。
「一つ、言っておきたい」
アルノルトは声を潜めた。
「短剣に見覚えがある。お立場を忘れてないか、元殿下」
アルノルトに耳元でささやかれたルートヴィッヒが、息を呑み、顔から表情が消えた。アルノルトは、振り返ることなく、借りている部屋へと向かった。
「忘れてなどおりません」
ルートヴィッヒの静かな声が追いかけてきた。
「お坊ちゃま、お嬢様に何を」
アリエルを部屋に連れて行く途中、マリアに見つかってしまった。
「馬車に酔っただけだ。あと、その呼び方はやめてくれ」
マリアは両腰に手を当て、ルートヴィッヒを睨んでいた。いまだにマリアは、何かあるとルートヴィッヒを、お坊ちゃまと言って叱る。元殿下と、アルノルトに言われたあとでは余計に堪えた。
「お坊ちゃま。許可なく女性の部屋に入ることなど許しません」
「だったら、どうしろというんだ。寝ているのが起きてしまう。マリア。あと、その呼び方をやめてくれと言っている」
マリアはルートヴィッヒを無視して、眠っているアリエルの顔を覗き込んだ。
「お嬢様、起きましょうね。さもないと、このけしからんお坊ちゃまが、お部屋に入ってしまいますよ」
マリアはルートヴィッヒの腕の中のアリエルの頬をつついた。
「ん」
「起きたか」
ルートヴィッヒはアリエルをそっと降ろして立たせてやった。
「あれ、私」
「宿舎についた。殿下とアルノルト殿はお帰りになった。お前が寝ていたから、部屋につれていこうとしたら、マリアが、駄目だといった」
ルートヴィッヒは淡々と事実を告げた。
「当たり前です。未婚の女性の部屋に入ろうなど、お坊ちゃま、いつからそんな、不埒なことをなさるような男になったのですか」
「マリア、それはあまりにひどい言い草だ」
「あの、マリア、団長様は、馬車に酔った私を、介抱してくださっただけよ。本当にありがとうございました」
「いや、いい」
「そうですか。本当にそれだけでしょうね、お坊ちゃま」
「マリア」
ルートヴィッヒは溜息を吐いた。やましいことがないとは言えない。膝の上で眠るアリエルの頭を撫でてやったら、指に艶やかな髪の毛が絡まった。指の間を滑り落ちて行った感触は、今も手に残っている。
「竜丁は、馬車酔いで、今日はスープしか食べてない。途中、茶は飲ませている。あとで何か用意してやってくれ」
「もちろんでございます」
とっととあっちへ行きなさい。そう言わんばかりのマリアにルートヴィッヒは肩を竦めた。
「竜丁、明日は食事の支度以外は休め。竜の世話は竜騎士にさせる。明後日はアルノルト殿が、南へ戻られる。その見送りだけは、来てくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
「いや、今日は無理をさせた。お前が馬車に弱いなど知らなった。すまない」
「私も知りませんでした。お手を煩わせて申し訳ありませんでした」
「お坊ちゃま、さっさとお部屋に」
王都竜騎士団団長のルートヴィッヒだが、追い払おうとするマリアに逆らう気はない。
「戻るよ、マリア。だからその呼び方はやめてくれ」
ルートヴィッヒは部屋に戻った。執務室の机の上には、また新しい書類が山積みになっている。
「短剣に見覚えがある。お立場を忘れてないか、元殿下」
アルノルトの言葉が、耳の奥で木霊した。潜めた声だったが、衝撃だった。アルノルトの指摘した通り、アリエルに渡した短剣は、ルートヴィッヒが見習い時代に持っていたものだ。柄と鞘の装飾を変えておいたのに気づかれた。平民出身のアルノルトが、ルートヴィッヒに、かつての立場を指摘するとは思っていなかった。
「捨てた立場なのに、責任だけが増えていく」
アリエルが来て、事務作業の効率が良くなった。結果、国王ベルンハルトから回ってくる仕事が増えた。いつもなら、アリエルが淹れる茶を飲んでから仕事をするのだが、今日は、アリエルはいない。
「書記官が欲しいな」
だが、夜に仕事をするルートヴィッヒに合わせてくれる書記官など、いるわけがない。おまけに、本来はここにはないはずの、王族の仕事としての書類がある。書類の存在そのものが機密だ。
「いいかげん、あちらで処理してくれ」
ルートヴィッヒは、今日は執務を放り出すことにした。
ふと見た手の袖に、一筋の長い髪の毛があった。服の胸にもついていた。アリエルの髪が、偶然抜け落ちたのだろう。月明りにわずかに光るそれを、ルートヴィッヒは机の上に置いた。
「竜丁、お前の他に、手伝ってくれる者がいないんだ」
当然、返事はなかった。
「お前に手伝ってほしい」
誰にも聞かれないとわかっているから、口にできた言葉でもあった。
「アリエル」
ルートヴィヒはそっと左胸のポケットに触れた。アリエルの刺繍してくれたハンカチを、そっと取り出した。




