7)後宮
水面から鼻と口が何とか出る状態で、アリエルは浮いていた。服が重い。流れ込んでくる水の振動が鼓膜だけでなく体全体に伝わってくる。
突然、水音が止まった。逃げて行ったあの男が止めたのだろうか。
先ほどまで滝のように水が落ちていた穴からは、今は何も出てこなかった。随分水位は上がったが、まだ、頭一つ分だけは余裕があった。
まだ水が冷たい季節だ。体力が奪われ、体が動きにくい。
水面よりもさらに上に窓はあった。今なら手が届く。アリエルはその窓の格子を掴み、剣の柄で鉄柵を叩き始めた。
後宮に押し入ったハインリッヒ達は、剣を抜き、侍女達を威圧し追い払った。
王妃の部屋は無人だった。侍女達も王妃を見ていないというだけだ。ハインリッヒがかつて見た、二人の騎士もいなかった。いるかどうかわからない三人目もいない。
途中で合流した影だという黒装束の男は、後宮で見失ったと言っていた。彼の仲間がすでに大半の部屋を探したが見つからず、今は壁や床を調べているとのことだった。彼らは王妃の部屋の敷物を引きはがし、床を叩いていた。多くの場合、王族の部屋には秘密の通路がある。
もはや、彼らのような玄人の密偵が必死に探している今、ハインリッヒに出る幕があるとは思えなかった。途方に暮れた耳に、奇妙な音が飛び込んできた。
金属を誰かが叩いている。音は後宮の裏庭から聞こえていた。
「ずいぶんと手入れが悪いな」
庭師がいるはずだが、庭は荒れ放題だった。音は途切れながらも続いていた。
「血の匂いだ」
影の言葉にハインリッヒは背筋が凍った。想像したくないことだが、間に合わなかったのだろうか。
「誰かいるのか」
ハインリッヒは叫んだ。
「ハインリッヒ様」
聞き覚えのある声がした。まさか、名前を呼ばれるとは思っていなかった。
「竜丁か」
「はい。ここです」
また金属音がした。
「どこだ、見えない。指示しろ」
「私からもハインリッヒ様は見えません。足元のはずです。水牢ですから」
「何、水牢」
「はい、まだ、余裕ありますけど」
ハインリッヒは舌打ちをした。水牢に余裕など無い。水がまだ冷たい時期だ。溺れて死ぬではないか。常識に欠けているのは、団長のルートヴィッヒ一人で十分だ。
「あの、剣を出して振りますから、光ると思います。気を付けてください」
光ったその場所に、確かに小さな窓があった。
「見つけた、竜丁、剣を引け。危ない」
這うようにして覗き込むと、月明りに照らされた顔が見えた。竜丁だった。
「先ほど水が止まったので、頭一つ分はまだ余裕あります。出口はこの小さな窓の反対側に階段があるので、その先だと思います。排水溝はあるのですが、人一人くらい通れそうなので、多分、排水されたら私は流されて死にます。排水しないでください」
寒さのためか、歯を鳴らしながらだが、いつもの声がした。要件をまくし立てるのは、二人とも同じだなと思った。小さな手が鉄格子を掴んでいた。
「すまなかった」
「見つけてくださいましたから」
鉄格子を掴んでいる手を握った。氷のように冷たく震えていた。
「王妃様付きの騎士が、叫んで逃げて行ったので近くにいるかもしれません。気を付けてください。でも、その人、入り口の在処を知っているはずです」
「わかった」
黒装束の影が、ベルンハルトに知らせるといって、走っていった。
マーガレットが隣でしゃがみこんだ。ハインリッヒは笛でペーター、ペテロの二人を呼んだ。
「竜丁さん」
「あら、マーガレット様」
ここに来る道すがら、何があったかはマーガレットと、ペーター、ペテロには話してあった。
「兄が、本当に、申し訳ないことを」
「それはお兄様でなくて、問題は王妃様なのと、たまたま火事が重なったのと」
「いや、竜丁、今回の火災だが、放火の疑いがある」
「え」
「なにも知らせがないうちに、侯爵が、貧民街が燃えているだけだ、と、おっしゃったの」
「あら、では日を合わせて計画したのですね。いらぬところで頭が良かったのですね」
手厳しいアリエルの発言はいつもどおりだ。ハインリッヒは苦笑した。
「王妃に口を割らせることができたら」
ハインリッヒの言葉にアリエルが答えた。
「もう無理です。先ほど溺水されたと思います。怖くて確認していません。水が止まる前です」
「そうか」
驚いた。ハインリッヒの口からは、それ以外の言葉がでてこなかった。
「王妃以外にも、男の人が一人、怪我をして水に落ちて、多分、それきりです」
「そうか。お前が無事なら問題ない」
血の匂いは、アリエルが見える小さな窓から漂っていた。赤の他人のシャルロッテなど、ハインリッヒにはどうでもよかった。妹を人質にとり、脅そうとした女が片付いたのだ。何も問題は無い。
「副団長」
駆けてきた双子は、地下から突き出たアリエルの腕を見て状況を察した。
「俺達、父ちゃん連れてくる」
「竜丁待ってて、父ちゃんなら何とか出来る。石工だからな」
ペーターとペテロが笛を吹き、竜を呼び寄せ飛び立っていった。
「まぁ、後宮なのに」
アリエルが呟いた。普段、竜を王宮や後宮の敷地で飛ばすことは禁じられている。
「お前、非常事態だろうが」
ハインリッヒは呆れた。
「水が止まっている間は大丈夫です」
せめてもと思い、窓から出ているアリエルの手を握って温めてやっているが、氷のように冷たい。水が止まっていても大丈夫とは言えない。やせ我慢はルートヴィッヒ一人で十分だ。
ペーターとペテロが連れてきたのは、初飛行に野太い悲鳴を上げながらも、仕事道具を手放さない石工の父だった。
「嬢ちゃん、中はどうなってる」
着地して落ち着くなり、男は真剣になった。アリエルから牢の構造を聞いた男は床石を叩き、反響を確認した。
「いいか嬢ちゃん、窓にしがみついていろ、天井をぶち抜くからな。頭にあたったら危ない。」
「はい」
石工は狙いをつけた場所に鶴嘴を叩き下ろした。何度目か振り下ろしたとき、足元が崩れた。そのまま慎重に、穴を広げていく。
「竜丁、来れるか」
白い手が穴から出てきた。手を掴んで引きずり出すと。見知った顔が出てきた。
「竜丁さん」
マーガレットが抱き着いて泣き出した。
「マーガレット様、濡れます」
そういいながらアリエルも泣いている。
「竜丁、移動するぞ」
ハインリッヒは脱いだ外套を着せ、アリエルを抱き上げた。
「非常事態だったと、あとで、団長に言い訳しておいてくれ」
血の気の無いアリエルの頬がほんのり赤くなった。




