4)水牢
ゆっくりと体が持ち上がった。予想していたが、やはり怖い。落ち着いていれば沈まない。浮力を意識しながらアリエルは水面に浮かんだ。もう、足が届かなくなった。浮いていれば大丈夫、山の川遊びで覚えたとおり、体の力を抜く。
右手にはすでに抜いた剣を持っていた。次にシャルロッテが来る時、ただで帰らせるつもりはなかった。なんとしても水を止めさせる。鉄格子の鍵を開けさせる。排水は危険だ。させてはいけない。
わざと波立たせ、滑りやすいように階段には水をかけておいた。春の訪れは近いがまだ寒い季節だ。狙い通り氷が張っているのかは、暗くてわからない。
脱いだ上着は、見えにくい位置に縛り付けておいた。脱出したときに、乾いた服は欲しい。使える物は、持っていた物だけだ。アリエルは水に浮きながら、ひたすらシャルロッテが来るのを待っていた。
あの強烈な臭いがした。水の深さを確認し、アリエルは柵に手と足を引っかけ体を立てた。浮いている方が楽なのだが、精一杯の計画を成功させるためには、少々の無理はせねばならない。
「あら、ずいぶんと深くなったわね」
シャルロッテが来た。こんなところに来るのに、豪華な衣装をまとい、踵の高い靴を履いている。狙い通りだ。男を二人連れている。シャルロッテの駒はこの二人だけだろう。
シャルロッテが水面に浸ろうとしている階段に立った。
「そろそろ背が届かないのではなくて。命乞いしないの。溺れるわよ」
アリエルは待った。柵の近くにいるアリエルの顔を見ようとシャルロッテが、かがんだ。その顔めがけて柵の間からアリエルは思い切り右手に持っていた剣を突き出した。
「きゃあ!」
避けようとしてバランスを崩したシャルロッテは、水に落ちた。水牢の深さはすでに、アリエルの背では足が届かない深さだ。シャルロッテの足も届かないだろう。シャルロッテは階段の最下段、最も深いところまで転げ落ちていた。
暴れて激しい水音を立て叫んでいるが、流れ落ちる水音と水面でもがくシャルロッテのたてる水音がうるさくて、何を言っているか聞き取れない。慌てた人間は、どれほど浅くても溺れる。喚くシャルロッテに向かって、慌てて階段を降りようとした男を狙ってアリエルは剣で突いた。
「ぎゃあ」
膝下を切られた男は、シャルロッテの真上に落ちていく。シャルロッテと一緒になって溺れ始めた。残るは男一人だ。アリエルは柵を蹴って、男の手が届かない位置まで、泳いで逃げた。
「大変ね。水を止めないと王妃様は溺れ死ぬわよ。あの男の人も死ぬかもね」
アリエルの声は、水音とシャルロッテが喚く声に消されたかもしれない。残る一人の男は、目を凝らし、こちらを探っていることはわかった。
「水を止めなさい。いいの。王妃が溺れ死んだら、あなたどうなるのかしら」
アリエルは怒鳴った。男が一歩下がった。
「水を止めなさい」
もう一度アリエルは叫んだ。
「うわぁぁ」
男は叫んで逃げて行った。予想外の行動にアリエルは頭を抱えたくなった。
どれ位時が経っただろうか。滝のような水音は止まらない。シャルロッテの立てる水音が聞こえなくなっていた。もう一人の男の声も聞こえない。二人が落ち着いて立ち上がって階段を上っていく様子もない。血の匂いが漂っていた。
このまま死体と一緒に血の混じった水に浮いているのかと思うと、情けなくなってきた。
「根性無し」
意味ないことと知りながら、逃げて行った男を詰った。水嵩は増していく。いずれ、天井に手が届く。
「ルーイ」
火事だ。無理をする人だということくらいわかっている。逃げ遅れた家族を助けてくれと言われたら、燃えている家の中にも入っていきかねない。アリエルの大切なルートヴィッヒはそういう人だ。無事だろうか。焼け死んだりしていないだろうか。竜は自分の選んだ竜騎士が死んだらわかると教えられた。人間はそんなことはできない。
「ルーイ」
浮いたまま天井に手を伸ばした。指先が冷たい石に触れた。あとどのくらい、時間はあるだろう。生きて会えるだろうか。彼は無事だろうか。涙が溢れた。水牢に閉じ込められて、初めて泣いた。
「お願い」
助けに来て。とは言えなかった。




