10)兄ハインリッヒと妹マーガレット
「息災か」
「はい」
マーガレットの兄は二人とも、あまり言葉数の多いほうではない。
「今は、お二方の執務室付きの侍女として、王宮におります」
マーガレットがシャルロッテのいる後宮から出ることができたのは幸いだった。
「兄上は」
ハインリッヒが長兄を気にするのも無理はなかった。今の家長である長兄の指示で、マーガレットは後宮に勤めることになったのだ。
「王宮務めとなったことを、喜んでいるようです。王族の方により近い場所での勤めに代わりましたから。執務室付きになったことまでは伝えておりません」
貴族とはいえ、男爵家は、どの有力貴族の派閥につくのかが大切なことだ。兄が、今後どうするつもりか、わからない以上、王家そのものに近い位置にいることは伏せておきたかった。いずれ伝わってしまうだろうが、それまでにマーガレット自身、自分がどうしたいかを決めたかった。
「兄上の御意向が分からない以上、そのほうがいいだろう」
ハインリッヒも同じように考えていると知り、マーガレットは安心した。意図せずして二人は同じように、王家そのものに近い位置に勤めることになってしまったのだ。
「執務室でのご様子は」
「先ほどの、お食事中とよく似た雰囲気です」
厳格な兄と、兄に甘える弟と、伯父と父を慕う息子、その三人を見守り、時に諭す優しい女。全員で家族のような親密さだ。シャルロッテの居場所など、どこにもなかった。
「兄上にどこまで進言したものか、迷っている」
シャルロッテの後ろ盾である侯爵家が、未だ御前会議で権力をほしいままにしているのも事実だ。
ハインリッヒは、彼の上官であるルートヴィッヒが不利にならないように、長兄に伝える情報を選んでいた。ルートヴィッヒを宰相代理に指名したベルンハルトが、侯爵家の権力を削ごうとしていることは明白だ。だが、男爵ごとにきに何ができるのだろうか。
「ハインツ兄様。私も、自分の忠誠をどなたに捧げるべきか、自分で考えて決めたいと思います」
「そうだな。一つ教えておく。お前が王宮付きになったのは、竜丁が陛下に進言したからだ。お前が人質にされ、私が手駒のように扱われることがないようにと、あの竜丁が陛下に言ったと、陛下の義弟であるライマー様から聞いている」
「そんな前から」
竜騎士であるライマーが王都に来たのは、ちょうど春の御前試合のころだった。季節はすでに秋を迎えている。
「違う、もっと前だ。お前のチェスの相手はエドワルド殿下だろう。何故かわかるか」
執務室でのお茶の時間のアリエルの言葉を思い出した。
「ハインリッヒ副団長様にはチェスを教えていただいています。一回だけ勝てたのですけど、それ以来全くです。あの日は、ハインリッヒ様が少し上の空でいらしたから、勝てたようなものです。マーガレット様も、お強いのでしょうね。竜騎士様たちも、護衛騎士様たちも、みんな強くて、私、誰にも勝てないのです」
少し元気がなかったアリエルに、マーガレットは初心者相手に手加減しない男達が悪いのだから、気にしないようにと言ったことがあった。
「殿下はあまりチェスにご熱心ではなかった。護衛騎士のクラウス殿が、竜丁に何かを言った。竜丁は、突然私にチェスを教えて欲しいと言ってきた。殿下は竜丁を慕っておられ、竜丁のやることなら、なんでも真似しようとなさる。当然チェスもだ。王妃付きの侍女の中に、私の妹がいると、クラウス殿か竜丁のどちらかが殿下に進言した。竜丁が私に教わるなら、殿下は、私の練習相手だった私の妹を相手にしたいと思われるだろう。あるいは殿下に、お前に教われば竜丁に勝てると、誰かが進言したのかもしれない」
マーガレットは、エドワルドが、チェスで勝ちたい相手がいる。いつか父上にも勝負を挑むと、息巻いていたことを思い出した。
「後宮にも王宮にも自由に出入りできるのは殿下だ。マーガレットなど珍しい名前ではない。陛下が男爵家のマーガレットを探しているとなれば、王妃が警戒する。王妃はチェスなどに、興味はない。殿下がチェスの相手に侍女のマーガレットを探しても、気にも止めないだろう」
マーガレットは息を呑んだ。エドワルドに、チェスの相手をしろと言われたのは、昨年の秋だ。そろそろ一年経つ。あの時、子供の単なる気まぐれだと思っていた。
「お前や私が気づくより前から、物事は動き始めていたのだ。目に余ることをなさった方がおられたせいで、時間をかけるはずだった計画が早まっただけだろう。おそらくまた、目に余ることをなさるだろう。その前にお前は、どうするか決めろ。私は決めた。だからここにいる」
ハインリッヒは階段の上を見つめた。その右手は左胸に当てられていた。騎士が忠誠を示す動作のうちの一つで、最も簡略なものだ。無意識かもしれない。
「私は、私が忠誠を誓った御方と、敬愛する御方のために、ここにいる。お前もどうするか決めろ」
「はい」
ハインリッヒに言われなくても、マーガレットの心は決まっていた。
「私は、恩人に報いたいと思います」
「そうか」
ハインリッヒが嬉しそうに笑った。




