14)執務室
執務室の前でアリエルは困っていた。料理を載せた盆を持っていては、扉をノックできない。マリアにやり方を聞いておけばよかった。
「すみません。お食事をお持ちしました」
部屋の中からは、返事がない。何の反応もない。
「あの、手がふさがっていて扉を開けられません」
やはり、何の応答もない。アリエルは、なんとか頑張って扉を開けて、驚いた。
ルートヴィッヒが大きな執務用の机に突っ伏して寝ていた。人がいるのに起きないなど、よほど疲れているらしい。
マリアに教わった通り、部屋の隅にある椅子の上に食事を置いたあと、執務机に近づいた。せっかく持ってきた食事だから、温かい間に食べてほしかった。おまけに今日は、ちょっと特別なのだ。
ルートヴィッヒを起こそうと思ったが、机の上の書類を見て、呆れてしまった。
「あら、こんなに沢山一人で確認していたら、仕事が終わらないわ」
金銭の授受の書類のようだが、計算間違いがあった。
「こんなのまで団長の仕事なの。あぁ、この計算した人、繰り上りがおかしいわ」
ルートヴィッヒが熟睡しているのをいいことに、アリエルは羽ペンを取り上げ、机の片隅で計算間違いを修正し始めた。三枚目の書類に目を通し始めた時に、目が合った。
「あ、おはようございます」
突っ伏した姿勢のまま、ルートヴィッヒがアリエルを見ていた。いつから見ていたのかわからない。
「お食事をお持ちしました」
アリエルは羽ペンで、椅子の上の食事を指した。
「お前が持っているのは羽ペンと書類だが」
ルートヴィッヒの言うとおりだ。だが、アリエルはルートヴィッヒに温かい夕食を食べて欲しい。
「お食事はあちらですね。冷める前に召しあがってはいかがでしょうか」
「そうだな」
意外と素直な返事をすると、ルートヴィッヒが立ち上がった。だが、食事でなくアリエルの手から書類をとった。すでに数個、検算結果を書き込んでしまっていた。
「お前は計算ができるのか」
迷った。養父は教えてくれたが、読み書きができない女の方が多いから、あまり人に知られないようにと言っていた。だが、トールの言う人間のことを手伝うには、計算ができたほうがいい。竜丁の仕事を軽減してくれているトールのお願いは聞くべきだろう。
「養父に教わりました」
養父のことを知っているこの男になら、言っても構わないだろう。
「ヴォルフか。なら、これを確認してくれ」
書類の束を渡された。机の片隅も使っていいらしい。ルートヴィッヒは別の書類に手を伸ばした。
「あの、お食事、冷めますけど」
「あぁ、そうだな。しかしお前に私の仕事を手伝わせて、私が食事をするのは、よくないだろう」
真面目だ。この騎士団長ルートヴィッヒは恐ろしく真面目だ。訓練でも、部下と一緒に素振りをしていた。本当に真面目な人だ。
「私は自分の分をもう食べました。召し上がっておられる間に、私が検算します。そのほうが効率がよいと思いませんか」
ルートヴィッヒはアリエルを見ていた。
「では、そうしよう」
食事を見た、ルートヴィッヒが首を傾げた。
「あ、その葉っぱ、商人からもらったものです。お肉と一緒に料理するとおいしいと言って分けてくれました」
貰ったのは香草だ。肉料理に入れると良いと言われた。庭に少し植えておいたから、根付いてくれたら嬉しい。
「商人が、金を受け取らずにか。そんなことはないだろう」
「最近、ハーゲスが商人の荷運びを手伝ってくれるんです。ハーゲスにとって、人間のものは面白いらしいですね。ハーゲスの荷運びのお礼といって、私にくれました。今度は、ハーゲスが喜びそうなものを持ってきてくれる約束になっています」
ルートヴィッヒと目が合った。
「お前は、竜にも人にも好かれるのか」
少し、うらやましい。ルートヴィッヒにそう言われたように思った。独りぼっち。トールはルートヴィッヒをそう呼ぶ。ルートヴィッヒは、竜にそう呼ばれる彼の状況をどう思っているのだろうか。
竜騎士たちが食卓を囲んでいる時、若手や中堅、二人の副団長達はそれなりに会話をするが、ルートヴィッヒは、ほぼ無言だ。ただ黙って聞いていることが多い。一番偉い団長が、あまりに多弁で、部下が委縮して何も言わなくなっても問題だ。だが、ほとんど背景となっている現状にも、アリエルは疑問を感じていた。
村でもアリエルに優しくしてくれる人は多かった。だが、人付き合いは楽しいことばかりではない。
「仲良くしてくださる方は多いと思います。でも、嫌われるときは、思い切り嫌われます。最終的には釣り合いがとれていると思います」
「ハインツか」
ルートヴィッヒが苦笑した。アリエルは、ハインリッヒの騎竜のヴィントには、好かれているが、ハインリッヒ本人には見事なまでに嫌われている。
「あのくらいなら、まだ普通に嫌われているという程度です」
「どのくらいが思い切りだ」
村はずれに住む司祭の拾われ子だ。おまけに顔貌が明らかに流民の血が流れていることがわかる。
「子供の時に、男の子たちから石を投げられたりしましたね」
食事をしていたルートヴィッヒの手が止まった。
「怪我は」
「避けましたから大丈夫です」
「そうか」
「ご心配いただき、ありがとうございます」
「無事だったのならばよい」
“独りぼっち”は、子供の時、命を狙われていたのだと、トールからは聞いている。なぜ命を狙われていたのかは聞いていない。
彼の記憶を刺激してしまったのかもしれない。失敗したなと思いながら、アリエルは書類に目を戻した。