8 嵐に駆ける
夏休みが終わった。
小学校から今までの学校生活で休み明けに学校に行く事がこんなにも重く感じたことは無い。
高校には絵日記の宿題などは無く、当然俺は出されたものは凛子との生活の間でも休みの前半の内に終わらせている。気持ちが重いのは夏休みの宿題ではない。
夏祭りの件だ。既に男子連中からは抗議どころか登校日での殺人予告に近い内容まで送られてきていた。
「やあ、紳士君。おはよう。」
「あっ、凛子か。」
「どうしたの? 今日から学校始まるよ。皆に会うの楽しみだねー。」
「凛子は気にならないの、カズ達から尋問受けるよ。」
「あっそうだった。でも付き合っている訳じゃあないし、平気じゃない。紳士君も元気出しなよ。しょうがないなー学校まで一緒に行ってあげるから。」
選りに選って登校初日から同伴で行くなんて、何て挑戦的なのだろうと思っていると、既に校門が見え、そこに集まって来る同級生の冷たい視線を多く感じていた。ちゃんとしている俺は長期の休みには上履きは持って帰って洗っているので、初日から隠される事は無く、袋から出し履き替えた。明日以降の心配は絶えない。
意外にも教室に居る間、男連中は寄っても来なかった。
それもその筈、俺の後ろには凛子が居て、そこには休み時間になると必ず四天王がやって来たからである。俺が席を立とうとするとカズが俺の襟を掴んで座らせる。
「二人とも付き合ってるんでしょ。」
四天王のリーダー格であるカズがストレートに聞いて来た。
「付き合っていないよ。」
凛子がいつも通りの声で答えている。
「君はどうなの? 【一ノ瀬】君。」
俺は皆からは苗字の一ノ瀬で呼ばれている。
「ああ、付き合ってはいないよ。」
本当の事を答える。
「嘘言わないでよ。だったらあのお祭りの時は何?」
尋問とはこういうものだ。本当の事を言っても信じて貰えない。信じるのは尋問している側の思っている答えのみだ。何故か教室の中が静かで、そこに居る全員が俺達の尋問の受け答えを聞こうとしている様だ。
「たまたま、一緒に行こうってなっただけ。」
「どっちが言い出したの?」
「私から。」
「凛子からなの? 本当? 一ノ瀬君。」
「ああ、そうだよ。」
「凛子、私達の誘いを断ったじゃない。」
「だって、先に一ノ瀬君と約束しちゃってて、私から誘ってたから断れなくて。」
「ずっと手を繋いでいたじゃん。」
見ると遠くで聞いている男子がうんうんと頷いている。きっとアイツもお祭りで見かけていたんだろうと思っていると、
「人が多くてはぐれたらいけないと思って。」
「それが切っ掛けで付き合い出したんじゃないの? どうなの一ノ瀬君。」
「えっ、どうして?」
「だって、楽しそうにずっと手を繋いでいたでしょ。」
「いや、お祭りは楽しまなきゃダメでしょ。」
「あのお祭りの日からスタートって事もあるでしょ。どうなの凛子。」
「スタートはそこじゃないし。」
何でそんな曖昧な思わせぶりな回答するのかなー、と思っていると当然、
「スタートはそこじゃないって、じゃあ何時からスタートしたの?」
と詰め寄られていた。
「ええと、そこじゃないって言うのは・・・。」
と凛子が言い淀んでいると、休憩時間の終わりのチャイムが俺達を救った。次の休憩、その後に続く長い昼休みが待ち構えている。本当に長い一日は始まったばかりだ。
尋問の一日が終わった。明日はどうなる事か。
駅のロッカーに預けていた着替えの荷物をとり、待ち合わせをしてスーパーで夕食の買い物をしてから凛子の家に一緒に行く。
いつもの様に大した料理もしないのに二人ともエプロンを付けてキッチンに並んでいた。
「それでね、明日は僕の荷物検査をするって言ってた。」
「尋問の次は検疫かよ。じゃあ俺は凛子にとってばい菌かウイルスって事。」
「何かねー、ノートや小物に二人の付き合っている痕跡を探すんだって、カズが皆と小声で話しているのが聞こえた。」
「へー、でも凛子のノート見てびっくりするんだろうな。」
「どうして?」
「全く授業の内容を書いていない、真っ新なノート見たら授業中何してるんだって、今度は先生から尋問を受ける事になるんだ。」
「あははは、でも、それは嫌だー。お願いこれから紳士君のノート写させて。」
「それはダメだ。もしそんな事したら、ノートが全く一緒で更に追及の手を広げて来るからな。」
「あはははははは。どの道逃げ場がないじゃん。」
「それが四天王の恐ろしい所なんだよ。」
「切り崩して逃げるとしたら。誰を狙うの?」
「やっぱり大人しそうなスズかな? いや待てよ、氷をガリガリ噛み砕くんだろう、底知れない何かを隠しているかもしれないな。」
「あははは、僕って四天王に守られているんじゃないの? それじゃあ、まるで囚われの身じゃん。」
「残念だけど、おれは紳士であって勇者じゃない。囚われの姫を救う事は出来ないな。」
「薄情者ー。ちゃんと助けてくれないと校内放送で流しちゃうぞ。『タスケテー紳士くーん』って。」
「その棒読みないい方が演技してますって感じでいい。」
「ふふふふ。楽しいね。」
数日が過ぎた。俺達への追及も飽きたのか鳴りを潜め平穏な日々へと戻っている。まあ、学年2位の成績優秀者と13位の俺が付き合っていたとしたら誰も文句は言えないのである。ただ、凛子の持つ何処か古風でお淑やかな印象の可愛い女の子に、これと言った個性も特徴も無い無害の一般男子生徒が付き合っている事が気に食わなかっただけなのかもしれない。でも本当に付き合っている訳ではなく、偏に契約に近い約束で結ばれているだけの関係なのである。それを他人に話す事も無ければ理解してもらおうとも思っていない。つまりは他人にどう見られようが構わないのである。それは俺の恋愛に於ける考えと一致していた。つまりは高校生活が終わって次の環境に移れば今の状況は過去のものとなり、思い出の中で何処かに忘れ去られて消えて行くだけで、その時に生きている時間のみが心に入って来るのだろうと。そして、就職して卒業と言うケジメが無くなった時からいろんなものを積み上げて行けばいいんだと。
珍しく男共に止められ、遅く学校を出て駅のロッカーから荷物を出し、遅れて凛子の家へと向かった。
もう9月にもなると夕方の訪れる時間も早くなり、凛子の家に着いた時には薄暗くなっていた。家に入ると明かりも点けずにソファーの上で膝を抱えて凛子が小さくなっている。大きな窓からの明かりが部屋を赤く染め、目の前のビル群には綺麗な明かりが点在していた。声を掛けづらいその雰囲気の中で、俺は凛子の横に座り、全く違う方向に視線を向けて語りかける。
「どうしたの?」
「・・・。」
待つ。
「今日ね、スズに呼ばれたの。」
凛子が静かに、何処か言葉を整理しながら選んでいるかの様に間を置いて話す。膝を抱えた中に顔を埋めているせいかやや籠った声である。
「僕にね、 紳士君の事、 本当はどう思ってるのって。」
俺は頷く事も話し相手になる事もせず、ただ聞いていた。
「スズね、 紳士君の事が好きなんだって。」
「・・・。」
「だからね、 もし、 本当に何も思っていないんだったらスズが付き合いたいって言うんだ。」
「・・・。」
「それでね、 紳士君は高校では恋愛はしないそうだよって言って上げたの。 そしたら、 ね、 やっぱり付き合っているじゃん って、付き合っていなきゃそんな事話さないでしょ って。 だから、 お願い、 来年の2月まで待ってって、 その後はスズに譲るからって 言っちゃたの。そうしたらスズが、『バカにしないでよ』って泣きながら走ってっちゃった。」
「・・・・・。」
「どうしたらいい? 僕は紳士君と離れたくない。紳士君が居ないと思い出が作れない。でも、スズの気持ちを、思いを、叶えて上げたい。ねえ、僕はどうすればいい?」
「凛子は自分の事だけを考えていればいい。俺はそう思うよ。」
「でもそれじゃあ。」
「凛子が俺を譲っても、俺はスズと付き合う気は無いし、他の誰ともだから。」
「そうだよね。そうだったよね。紳士君は誰とも付き合わないんだったよね。」
「彼女達には結婚の事話していないの?」
「高校2年が終わったら日本を離れて外国で結婚するって話?」
「そうだよ。」
「そんな事、正直に言ったって誰も信じてくれないよ。」
「えっ?」
その時初めて俺達は目を合わせた。凛子は抱え込んだ膝に押し付けた顔の目だけを俺に向けて話す。
「ふふ、そうだよ、紳士君以外、こんな話し普通は誰も信じてくれないよ。」
「じゃあ俺は?」
「んふ、初めて打ち明けた時に、何の疑問も持たずに信じてくれるなんて思っていなかったんだ。だから僕はね、色んな質問を想定して準備してたんだよ。何とか君を説き伏せて信じて貰うように。でも紳士君は何も聞かずに信じてくれた。僕の方がびっくりしたよ。普通は信じないよ。」
「それじゃあまるで俺がおかしな奴みたいじゃない。」
「んふふっ、君は本当の紳士君だったんだ。僕にとっての紳士君だったんだよ。だから、このまま一緒に居たい。僕が日本に居る間は一緒に居て、楽しい思い出を作りたい。だから、だから僕は紳士君を手放したくない。ずっと一緒に居たい。ううん、居て欲しい。」
「だったら、このままでいいんじゃない。スズとは少しギクシャクするかもしれないけれど。本当の友達なら時間が解決してくれるよ。カズはきっといいリーダーっぽいからね。」
「分かった。」
「それにだ、凛子は気付いていないかもしれないが、きっと俺を好きな子はスズだけじゃく、もっともっといる筈だ。俺を好きな女の子は全員シャイで俺に告白できないでいるだけなんだよ。一々そんな事を考えていたらこれから毎日悩まされるぞ。」
「んプッ、紳士君とは思えない発言だね。」
やっと凛子は顔を上げて俺を真っ直ぐに見て笑ってくれた。
「時として変わるものだろ、多重人格者としてはね。 じゃあ夕飯でも作ろうか。」
「そうだね、ありがと。」
いつもの様に並んでキッチンに立っている。
「帰ったら陽菜に聞いてみようかな。」
「何を?」
「凛子の様に俺達位の女の子が外国に行って結婚するって話。突然聞いたら信じるかどうかって事をね。」
「ふ~ん、それで?」
「あ、いやダメだ。どちらに転んでも俺が変な奴になるな。」
「どういう事?」
「『信じないよ』って言ったらやっぱり俺は普通じゃなくなる。かといって、『信じて当然でしょ』って言われたら俺の家族が変だって事になっちゃうだろう。」
「あははは。」
「でもさ、初めに凛子の事話した時に何も聞かずに俺の両親は『頑張れ』って言ったんだぜ、何だか心配になって来たな。単なるお人好し一家なんじゃないかって。」
「あははは、紳士君って本当に面白いね。僕、笑ってばっかりだよ。陽菜ちゃんに直接会って聞いてみたいなー。」
「凛子の結婚の話は俺が先に聞くから無駄だよ。」
「違う違う。僕が聞きたいのは陽菜ちゃんのお兄さんて何でこんなに変な事考えるのかって事。」
「はぁ? よし、凛子が聞きたい事がはっきり分かったから、陽菜には模範解答を教えておこう。」
「あはははは。」
翌日、俺は学校が終わり直接自宅へと戻る。自分の部屋のドアを開けると妹の陽菜がパソコンを使っていた。
「あ、お兄ちゃん借りてるね。」
「ああ、いいよ。勉強、大変?」
「そうでもないよ、お兄ちゃんの高校は模試判定で【A】だからさ。偏差値のランク少し落として受けるからね。」
「こりゃまた変なのが来るって事だね。」
「どういう事?」
「ああ、凛子もそうなんだ。本当はもっと上の高校に行けるのに今は内に居る。だから授業中もノートなんか取らずに成績優秀って事。」
「かっこいい~。凛子さんって凄いね。」
「いいか陽菜。高校に入ったらノートはちゃんと取れよ。」
「は~い。」
「そうだ、陽菜は凛子が結婚するって話聞いているよね。」
「うん、お母さんに聞いた。だからお兄ちゃんが家を空ける事が多くなるって。」
「例えばさ、友達からいきなり凛子の様な話を聞かされたら陽菜はどう思う?」
「う~~ん、相手によって違うかな?」
「どういう事?」
「その友達が普通の友達なら色々聞いて納得するまで信じない。でも、日頃からその友達の話し方や自分との接し方で心から信頼を寄せていたらそのまま受け取って信じて、全力で応援すると思うよ。」
「お前、大人だな。」
「へへへー、女の子は男の子より精神年齢の成長が早いのです。つまりは【ませてる】って事。」
「やっぱりか、だから俺は凛子に勝てないのか。」
「あ~、凛子さんに会ってみたいなー。」
「会ってどうするの?」
「なんでこんな変なお兄ちゃんを選んだのかって言うのを聞きたいの。」
「お前らは。」
後日、凛子にこの話をしたら腹を抱えて笑い転げていた。
日曜日の夕方、まだ夏の気配が残っている9月は多くの人の外出に地下鉄もほぼ満員に近い状態で走っている。俺達は凛子の目標である【怖い映画】を叫び声で堪能して来た帰りだ。大きなスクリーンに体を震わす重低音の音楽が恐怖を数段引き上げる。自宅の大画面のテレビなんかは足元にも及ばない。更に自分達の周りに居る観客の悲鳴がより一層の恐怖を掻き立てていた。凛子は映画にはポップコーンだね等と言って買ってはいたが食べる事もままならない程に俺の腕にしがみ付き、時に顔を埋めていた。
「いやーやっぱり怖いね。今夜は紳士君が泊ってくれる日だから助かったよ。」
俺達は横並びに立っている。俺がつり革を掴み、凛子は繋いでいる手の腕にしがみ付いて電車の揺れに耐えていた。食べ切れなかったポップコーンは抱えて持っている。
「でも何で恐怖映画なの? それって日本以外でも見られるじゃない。」
「違うんだよ。日本人と外国の人では悲鳴を上げるところが違うの。」
「そうなの?」
「うん。だから、映画館での悲鳴を上げる時の感覚が僕と少しズレると恐怖心が薄れちゃうから、日本人に囲まれた中で見たかったの。でも怖かったね。怖いシーンより先に後ろの人が悲鳴を上げるんだもの。ビクッとなっちゃったよ。」
「あの人相当悲鳴上げてたよ。もしかしたら何にでも悲鳴上げるんじゃない。」
「あははは、それはそれで周りがびっくりするね。」
「きっと映画の配給会社から毎回試写会に呼ばれていると思うよ。」
「そんなにしても、まだ悲鳴って出せるのかな。それに怖い映画に慣れないのかな。」
「もしかしたら仕事かもよ。職業、絶叫ってね。配給会社の手の者かもよ。」
「新たなエンターテインメント? 歌舞伎の【大向う】と同じ様にこれからは映画にも神出鬼没な悲鳴の合いの手を入れる親睦組織が出来ているのかもね。」
俺達の話題は映画の内容よりも周囲にいた人たちに注意が向けられていた。そんな取り留めも無い話をしている内に凛子の家の最寄り駅に到着した。
改札を抜けて地上へと続く階段の手前で多くの人達が足止めを喰らっている。
見ると、階段の上に見える地上は真っ暗になっていて物凄い勢いで大粒の雨が降り注ぎ、それが中にまで吹き込み雨水が階段を伝って階下のこの位置まで流れて来ていた。今や異常気象でも何でも無くなってしまった【ゲリラ雷雨】がここに現れたのだ。ずっと地下鉄で移動していた俺達は知る由もなく、それはそこに居合わせた人達も同じであった。数人は折り畳みの傘を出してはいたが階段の上に見える雨の威力に怯え、広げようともしていない。ゲリラ雷雨は雨だけでなく風も強く時折響く雷鳴にその中を進もうとする人たちの心をも砕いている。折り畳み傘などの弱々しい物ではこの雨を防ぐのも無理で、まして折れてしまっている心を奮い立たせるには何の役にも立たないのである。
地上を覗き見た俺は凛子にしばらくここで待とうと声を掛けようと見ると、彼女は物凄い笑顔で俺を見つめて、
「やった。来た来た。僕はこれを待っていたんだ。」
などと言って来る。俺は少し自信なさげに凛子に聞く。
「まさかとは思うけれど、この雨に打たれるのも凛子の目標なの?」
「そう。打たれるんじゃなくて、この中を駆け抜けるの。傘持っていなくて良かったー。」
「物凄い雨だよ。何かをひっくり返したって言う以上に。それに風も凄いよ。」
「うんうん。嵐だね。僕の家まではすぐだから、走って行けるよ。」
「はぁ~、目標かー、何てことを考えるのかね。」
「行こ行こ、早くしないと雨が止んじゃうよ。」
「よ~し、行くか―。」
「おーー!」
吹き込む雨を避ける様に階段から少しずつ遠ざかる人達を抜け、俺達は一気に階段を上り始める。階下に居る人達からは何てバカな事をするんだと思われているんだろうな。数段登ったところで既にズボンも靴も濡れ、膝を上げ辛くなってきている。一旦地上出口の所で止まり、凛子と顔を見合わせた。凛子が笑っている。とても素敵な笑顔だ。そう、それでいい、凛子が笑って、凛子が喜んで、凛子が良い思い出として残せるのならそれでいい。他の人達がどう見ようと、どう思われようと関係ない。彼女は瞳を輝かせ俺の手を引いた。
「キャ~~~~!」
「うおお~~~~~!」
二人同時に駆け出す。雨粒は大きいなんてもんじゃない。大体、粒ではない塊だ。その塊が大地を打ち付け俺達の叫び声をかき消して行く。俺達がどんなに大きな声で叫んでも何処にも届かない。届いているのは俺達の間にだけだ。広い世界の中で俺達の声は俺達にしか届いていない。2人だけの世界だ。身体も数歩走っただけでずぶ濡れとなり、繋いでいた手は自然と離れ、無意味にも頭を隠して走った。靴の中には既に水が入り込みいつもと違うものを履いている様に重く脱げそうになっている。頭の上に雨除けの為に翳していた腕はすでになく、早く走る為に振っている。凛子も同じ様に走って、持っていたポップコーンは既に何処かにばら撒かれて空となった紙のカップだけを握っていた。風も強く、顔を打ち付ける雨の痛さに叫ぶ。
「キャ~~~~、痛ーい!」
それと同時に凛子は笑っている。
「あはははははははは。キャ~~~~!」
「うおおおおーーーー。」
俺も叫ぶ。開けた口に容赦なく雨が吹き込む。目を開ける事も容易ではなく、薄目で走っていたが叫び声は続けていた。
「キャ~~~~!」
「うおおおおーーーー。」
3つ目のビルを過ぎ、目の前に見えたビルのキャノピーへと逃げ込む。二人ともびしょびしょになっていて、濡れた衣服が肌に貼り付いている。凛子の白い洋服は雨に濡れ透明感を増していた。特に肌に貼り付いるところはそれを覆う様に水が流れ、その部分が透明になってピンクの下着を飾っているレースの模様までをもくっきりと見せ付けている。
「はぁはぁ、楽しいね。あはははは。」
「ポップコーンは何処にいったの?」
凛子は手に握っている嘗てカップだった紙を見て、
「あれー、あははははは、何処行っちゃたんだろう。あはははははは。」
等と一つ言っては笑っている。俺が手を伸ばすと、
「ありがと。」
といつもの言葉と共に握りしめている紙屑を渡して来た。
「一気に行こうか。」
俺の言葉に凛子は返事もせずに叫びながら飛び出して行った。
「キャ~~~~、ぅわ~~~~~~! あはははははは。」
俺も駆け出す。
凛子を追い越すと、
「ズル~い、待てーーーー!」
と言って俺に手を伸ばしながら追って来る。俺は振り向いて手を差し出すも、凛子が届かない位の距離を保って前を走った。
「凛子、こっち。」
「ズルいズルーい。待ってって言ってるでしょー。」
「あはは、置いてくぞー。」
少し先まで走り、立ち止まって手を伸ばして待つ。凛子はそんな俺の手を目掛けて飛び込みながら握ると勢いそのままに俺の腕を抱え込んで、はぁはぁと息を切らせている。お互いのずぶ濡れを見てまた笑う。
「はぁはぁ、もう、紳士じゃないんだから。あはは。」
「俺の紳士もポップコーンみたいに何処かに飛んでちゃった。」
「あははは、じゃあ急いで戻って探さなきゃ。」
「この雨だ。物凄い勢いで流れて地面の下を通って、もしかしたらもう海まで行ってるかも。」
「あはは、どうしよう、今夜君は紳士君で無くなるの? この身がしんぱーい。あはは。」
「それは大丈夫。俺の多重人格の中から君を襲わない人格を引き出すよ。あー、でも念のためにベッドの回りにはニンニク置けよ。」
「きゃーーー、でもそれって人格じゃないじゃん。あはははは。」
素敵だ。凛子は笑いっぱなしだ。この雨が俺達をおかしく変えてしまったのだろうか。
そこから俺達はゆっくりと歩いて凛子の家があるマンションへと向かった。凛子はずっと俺の腕にしがみ付くようにしている。
「こんなにびしょびしょで、きっとコンシェルジュの人怒るよ。」
「あははは、そうだ考えて無かった。いい迷惑だね、僕達いつもお世話になっているのにね。」
「凛子の母さんに苦情の連絡が行くな。」
「だったら大丈夫。『雨に濡れたなんて素敵ね』って言うよきっと。」
「どうして?」
「だって、雨の降らない国に居るから。僕もいずれその国に行くんだ。」
「そうかー。雨が降らない国なのか。」
そこからは無言で歩いた。
マンションに着くとコンシェルジュの人は嫌な顔などはせず、大急ぎでバスタオルを何枚も持って来てくれた。大体の水分を拭って、俺達は1枚ずつバスタオルを肩に掛けて凛子の家に行く。玄関で濡れたものを全て脱いで家に上がるので、凛子が先に入り家の外で待つ俺は凛子の合図があってから30数えて玄関に入る様にした。玄関ドアがノックされ、30数えてから入る。そこにはさっきまでずぶ濡れだった凛子の形跡である水溜まりと浴室へと続く水滴が輝いて見え、乾いているバスタオルがいつもはここに無い椅子の上に置いてあった。俺もその場所で全部脱いで乾いたバスタオルと一緒に凛子の優しさに包まれる。
熱いシャワーを浴び、凛子からもらった優しさを返すように丁寧に紅茶を入れ、ソファーに並んで座り、体を温めながらゲリラ雷雨の余韻に浸っていた。
「コンシェルジュの人、優しかったね。」
「人間が出来ていないとああには成れないね。きっと最初にずぶ濡れな人を見たら顔に現れるからね。」
「僕は優しい人達に囲まれているなー。」
「それには俺も入っている?」
「当然。でなきゃあんな雨の中を一緒に走ってくれないよ。」
「いや、本当に優しかったら止めさせていると思うよ。バカな事はするなってね。」
「はははは、大人の対応だね。でも僕達はまだ高校生だから。一緒にバカな事をやってくれる方が優しいよ。ねえねえ、クラスの何人があの雨の中走ってたかな。」
「誰も居ないんじゃない。もしかしたらゲリラ雷雨の範囲内の人はみんな雨宿りしていたんじゃないかな。」
「そうかな、そうだと良いなー。あの雨の中を走っていたのが僕達二人だけだったら本当にいいなー。」
すでにゲリラ雷雨は止み、星空が見えていた。凛子は窓の外のビル群の更に先を見ている様だった。
翌日の月曜日。いつも通り凛子が起きる前にここを出て、自宅にずぶ濡れの衣服を持ち帰り、着替えてすぐに学校へと向かった。
その日凛子は学校を休んだ。
サッカーで遊んで自転車で帰っている途中で、突然降られた事が有ります。
気持ちよかったー。何か楽しかったです。一緒の奴と叫びながら自転車漕いじゃいました。
ゲリラ雷雨ではなく、ちょっと強い雨ですけれどね。