2 期限付きの別れ
「ねえ、そこの紳士君。」
16:48、登り電車の3両目。
立っていた俺はいきなり背中に指を突き付けられ、昼に聞いたことの有る言葉をやはり背後から聞かされた。
「はぁ~。」
「どうしたの? 僕と約束したことがそんなに辛いの?」
「いや、確かにボーっとしていたとはいえ、同じ年の女の子に背後から指を突き立てられる隙だらけの自分が不甲斐なくてさ。」
「くくっ。」
「で、俺は何処まで連行されていけばいいの?」
「3つ目の駅で乗り換えます。」
学校の最寄り駅からの電車は、当然であるが同じ学校の生徒で溢れかえっていた。俺も彼女も他人から変な詮索をされないように、その距離を微妙に保って3つ目の駅で別の電車に乗り換える。
乗り換えた電車は都心に向かっており、この方向へ向かう学生は少ない。
同じ様に俺の後ろに凛子が並んで立っている。
電車内は家へと向かう会社員で込み合っていたが、朝の通勤時よりはゆとりがあり、皆思い思いに身体の自由を味わっていた。俺と凛子は相変わらず前後に並び、俺がつり革を掴んで、凛子はいつの間にか俺のシャツを摘まんでいた。揺れる度にその摘ままれた所が思っている以上に引っ張られる。ああ、もし女の子とデートでもしていたならこんな感じなのかなと少なからず心地いい感傷に浸っていると、突然、摘ままれていたシャツが張る感じを覚えた。強く握られたのである。そして、次の瞬間。右肩に感じる重い衝撃と鼻をすする音。
電車とは違う振動が背中に伝わって来る。
鼻をすする音と連動しているその振動に俺は体を拘束されていた。動けなかった。凛子に声を掛けられなかった。
「ありがとう ・・・。」
消え入りそうな声がやはり後ろから聞こえたが俺には良く聞き取れなかった。
乗る前に凛子から教えられていた6つ目の駅で降りる。
凛子は泣き顔を誰にも見られたくないのか、電車内と同じ様に俺のシャツを握ったまま顔を伏せて一緒に降りた。
ここまで都心になると、この時間は電車に乗る人がほとんどで、降りたのは俺達を含めて数人だけだった。
降りた乗客達はさっさと改札を出て行き、電車が走り去ったホームには、俺と俺にしがみ付いている凛子だけが残っている。身体を拘束されたまま、再び背中に頭を押し付けて来た凛子が落ち着くのをただじっと立って待っていた。
「ありがとう、ごめんね。」
「何か飲みたいな。それに、シャツも乾かさないと。」
「ふふっ、やっぱり君は紳士君だね。」
「そんなんじゃない、単に臆病で動けなくて、・・緊張で喉が渇いたんだよ。」
「くくっ。」
まだ目に涙を溜めたままの凛子は笑顔になった。こんな時にはハンカチを渡すのだろうが、昼に手洗いで使っているのでカバンからポケットティッシュを出して渡そうとすると、
「やっぱり紳士君じゃない。でも大丈夫だよ、僕だって涙を拭くハンカチぐらいは持っているから。」
終始笑顔で話しながらハンカチで涙を拭いた。一体何で泣いたのだろうと、涙で濡れてその長さと艶を一層際立たせた彼女のまつ毛を見ながら乙女心はやっぱり分からないなと思い凛子の後に付いて改札を出て有名な全国チェーンのコーヒーショップに入る。
緑色の輪の中で人魚が微笑むその店の中は、もう都心の夕方という事で空いており、自由に席が選べたので、少し奥まった角のあまり人目につかない席に彼女を案内して座らせた。
「飲み物を買って来るよ、何がいい?」
「僕はコーヒーが飲めないんだ。」
「分かった。」
そう言って、人気のコーヒーショップでアイスティーを2つ頼んだ。
「僕に合わせる事無いのに。」
「俺も紅茶派なんだ。」
「へ~、君は紳士君だからてっきり渋くブラックのコーヒーを飲むのかと思っていたよ。」
「奇遇だね。俺も凛子は今時の女の子達と同じ様に何か長い名前のミルクたっぷりの甘いコーヒーが好きだと思っていたんだ。実はドキドキしていたんだよ、長ったらしい名前を間違えなく店員に言えるかどうかってね。」
「あはははは。」
「分かった凛子、さっき電車でチカンに遭ってたのか。」
「はぁ?」
「だって、通学電車内で突然女子高生が泣き出すなんてそれしか考えられないだろう。」
「ねぇ、君は紳士君なんだから ・ ・」
「ゴメン。その場で犯人を捕まえられなくて。」
「あはははは、やっぱり君は紳士君だね。でも大丈夫、チカンなんかには遭っていないわよ。」
「じゃあどうして。」
「僕、結婚するんだ。」
「えっ・・・。」
「来年の7月29日、僕が18才になったら。」
「えとー、何言っているのか良く解らないな。だってノートの切れ端に『一緒に暮らさない』って書いてあっただろう、だったらその結婚相手と暮らせばいいじゃない。」
「僕の結婚相手は日本人じゃないんだ。遠くの国の人。」
「・・・・」
「来年の2月、高校2年が終わったら学校を止めてその国に行って結婚の準備をする。」
「・・・・」
「何かさ、急に怖くなっちゃったんだ。外国で結婚するとかじゃなくて、何かさ、日本に産まれて来たのに日本での思い出が無いって事に。日本の男の子と恋愛もしたこと無くて、日本の良い所、楽しい所も行った事も無いし、何かさ。か . . . 。」
「んで、俺と一緒に暮らして日本の思い出作りを手伝えと?」
「そう。」
「何で俺なの?」
「それは当然、君が紳士君だからだよ。」
「俺の何処が紳士なの?」
「僕は高2になった時から紳士君を探していたんだ。一緒に暮らしても野獣に変わらない同い年の紳士君をね。そこで君が、いや、君を見つけたんだ。」
「理由になっていないよ。俺も立派な高2の男子なんだ、健全な肉体には時として不健全な精神も宿るんだよ。」
「そんな事は無いよ、君に限って。」
「どうしてそんな事が言えるんだ?」
「だって、君は根っからの紳士君だからさ。」
「やっぱり理由になっていない。」
「そうだね。でも君は平等に優しい。男女問わず、同じ態度、同じ言葉使いで接して皆と均等の距離を保っている。」
「それって、本当に仲のいい友達がいないって事じゃないの?」
「そうとも言える。でもやっぱり優しい。君は、そうだ、ベビーカーに乗っている子供が手を振ったら笑顔で君も手を振り返すでしょ。」
「えっ、どこかで見ていたの?」
「あははは、やっぱりそうなんだ。」
「見たような事言わないでよ。」
「でも当たっていたでしょ。」
「ああ、反射的っていうの? 気付いたら振っている。」
「そうなんだよ、そんな子供に対しても無視しない。物を落としたら拾って上げるし、今日だって僕の訳の分からない事に付き合ってくれている。それに泣いてもね ・・。」
「普通なんじゃない。拾って上げる位大した労力でもないし、今日だって悔しいけれど俺には何の予定も無かったんだから。」
「だったら、泣いていた僕をじっと待っていてくれたのは?」
「そ それは何だ、振り払って帰る勇気が無かったんだ。そう、俺は臆病で勇気が無いだけなんだ。」
「くくっ。僕は4月からずっと観察していたんだ。クラスメイトの男の子を、恋愛対象としてでは無くて紳士かどうかと言った所をね。そして君が一番。胸を張っていいんだぞ、君が一番の紳士君なんだ。」
「いや、恋愛対象じゃないのかよ。」
「だって、僕には結婚相手が決まっているし ・・ 。ええっ? もしかして僕の事が好きだった?」
「いや。」
「即答? 溜めも無いの? ねえねえ、君は誰が好きなの?」
「誰も居ない。」
「えっ? 内の生徒じゃないって事?」
「そうじゃない。好きな子は居ないし作らないって決めているの。」
「どうして?」
「高校生だから。」
「えっ? 高校生だよ、人生の中で最も輝ける3年間なんだよ。」
「だからなんだ。人生の中のたった3年間で付き合った子とその後の人生もずっと一緒に居られないだろう。卒業と同時に別れが来る。その時じゃなくても暫く経ってからね。大学生になり社会人になってお互いの環境と知り合う異性の中できっといい人に出会う。その時の自分に合った相手にね。だから、一時の感情だけで付き合ったら別れる時がつらくなるだろう。」
「ふ~ん、そこまで考えているのか。だったら僕とは最高だね。僕は来年の3月には日本から居なくなる。別れが期限付きでやって来る。君の日本での世界から僕は居なくなるから後腐れも無い。そして、きっと、もう 戻れないから・・・会う事も無い。」
凛子は俯いた。俺はどう言葉を掛ければいいのか分からずアイスティーを飲んだ。
ズズっ ズズズー あっ
気づいた時には全てを飲み干して品の無いストローを啜る音を響かせてしまった。
キョトンとして顔を上げる凛子。次の瞬間、プッと笑って笑顔になり、
「やっぱり君は紳士君だね。落ち込んだ少女を笑顔にする術を知っている。」
「・・・・で、どうゆう風に一緒に暮らすの?」
夕方、たま~に、本当にたま~に電車内や駅で女性が泣いているのを見掛けます。
「どうしてなんだろう」って思いませんか?
そんな事考えるのは私ぐらいでしょうか。その涙には色々なストーリーが・・・なんてね。