14 あと少しだけ
「紳士君、おはよう。」
目を覚ますと凛子が傍に居て、顔を覗き込んでいた。
「僕、お腹空いちゃった。早く着替えて食べに行こう。」
凛子は笑顔だ。昨夜の事など無かったかの様に、いつもの声と笑顔を俺に向けている。急いで着替えて朝食バイキングに行くと、既に多くの人達が列を作って食べていた。雪も止み、皆ゲレンデへと向かうためだ。凛子は何種類もの食べ物をテーブルに並べて自慢している。
「さあ、食べて雪遊びに行くよ。」
「食べ切れるの?」
「食べるの。それを全てエネルギーに変えて遊ぶの。皆がびっくりするくらい大きな雪だるまを作るんだから。」
結局、凛子は色々な物を少し味わっただけで俺に残りを食べさせた。残したら農家の人に悪いとか、命を落とした動物や植物に申し訳ないとかを言いながら俺の横でオレンジジュースを飲んでいた。ケタケタと笑いながら。
ゲレンデで雪だるまを作るのはダメなので、ホテルの前にある広場で作ることにした。既に小さな子供連れは雪遊びをしている。ここはスキーやソリなどが滑って来る事が無いので安全な所なのだ。
昨夜降った雪は粉雪に近く、握っても直ぐに解れて形にならない。凛子は悔しがって俺に雪を投げ付けて来る。
「何とかしてよ紳士君。あははは。」
「ちょっと、ちょっと待て。今、考えるから。」
「はーい。チックタック チックタック チックタック。」
「うるさいよ。」
「あははは。時間切れでーす。」
そう言うとまた雪をかけて来た。
「待ってろ。」
そう言って俺はホテルに行き、ペットボトルの水を買って来た。
「それをどーするの?」
「少し掛けて溶かして固めるの。ちょっとシャーベット状になっちゃうけれどね。」
大きなものは出来ないので、表面が少し堅めで少し怖そうな『雪ウサギ』を作った。
「おー、僕も作ろう。でも何か・・・こわッ。」
俺達は何かに取り憑かれた様に何羽もウサギを作った。
「きゃー、可愛いけれど目が無いと怖いね。」
周りにはウサギの目になりそうな南天や千両・万両等の赤い実のなる木も無いので、
「よし、手分けして目になりそうな物を探して来よう。どっちが可愛いか競争だ。」
と提案したら、
「勝ったら何してくれるの?」
等と如何にも自分が勝つんだと言わんばかりの事を言って来た。
「何がいい?」
「う~ん、やっぱり帰ってからの紅茶サービス。」
「うん、いいよ。」
その場を離れてウサギの目になりそうな物を探す。こんな雪に覆われた所には草木も無く、まして地面などは顔を出していないので石ころも無い。見つかるのは落とし物にも成らないゴミか何かから取れてしまった物の一部位である。それを拾い集めてウサギの広場に行く。同じ頃凛子も戻って来て、持って来たモノを見せ合いっこする。
「あははは。ほとんど一緒じゃん。」
「じゃあ、飾りつけで勝負が決まるな。やるか。」
「うん。」
凛子は鼻歌交じりで楽しそうに目や鼻を付けて行く、俺も同じ様にして、時折凛子を見ると、
「ダメッ、見ちゃだめっ。」
とお叱りを受ける。
雪ウサギに目なる物を飾っていると、知らない内に俺達の所に子供達が集まっていた。
「おねえちゃん達何してるの?」
「ウサギさんを作ってるの。」
「ウサギさんの目は赤いよ。」
「赤いのが無いからねー、これで我慢して。」
凛子は横に立っている小さな女の子と話している。膝を突いてウサギの目を飾っているのでちょうど女の子と同じ高さに顔が有る。
「ねえ、どのウサギさんが可愛い?」
「ん~とね、ん~と。」
女の子が悩んでいると凛子は女の子の視線を誘導するかのように、視線を合わせたりウサギを見たりを繰り返している。
「ん~とね、これっ。」
女の子は凛子のウサギを指差した。
「やっぱりー、あなたいい子ねー。」
そう言うと、次に俺に向かって、
「私の勝ち!」
とサムズアップを向ける。
「今のは誘導だろう。」
「違うわよ。こんな小さな子供は誘導なんかできないよ。この子の純な心が決めたのよ。私の勝ち。」
俺に笑顔を向けると、直ぐに女の子に向き直り一緒に雪ウサギの目を飾り出した。
凛子の希望で、最後にもう一度雪の中に倒れ込んで体の模様を刻んでから昼食を取り、帰路のバスに乗る。
来た時と同じバスにはカーテンが有り、それを閉めて俺達だけの空間にいる。
隣で横になっている凛子は俺の左手を握ったり、指を数える様に1本ずつ触ったりして話す。
「楽しかったー。」
「うん。雪。良かったね。」
「次はいつ見られるのかな? もう画面でしか見る事出来ないのかな。」
「・・・。」
そうしている内に指を絡めて握り、もう片方の手で包むと体の向きを俺に向け、
「このまま眠っていい?」
「うん、いいよ。」
俺が言うと凛子は微笑んでそのまま目を閉じて眠りに落ちる。俺も昨夜の不眠と雪遊びで疲れていて凛子の後を追う様に眠りに落ちた。
もう直ぐ到着するという時にやっぱり俺が先に起きた。
隣で眠る凛子は俺に体を向けたそのままでいる。ぽっと息をする様に少し唇を開いて横向きの目頭の所に涙が溜まっていた。彼女が起きる前に拭き取って上げたいが凛子に左手をしっかりと抱え込まれているので動かせない。いや、起こさないように動けないでいる。俺はただ、その涙の理由を探るしかない。昨夜の事なのか、もっと先に有った事を夢に見ての事なのか、それとも将来の事を予知夢でみてしまっての事なのだろうか。微かに凛子の瞼が動いたので、急いで俺は目を閉じ眠ったふりをした。
「紳士君。もう直ぐ着くよ。」
凛子に起こされて彼女を見る。その目には既に涙は無かった。暫く近くで見つめ合ったままで居ると、何処かのカーテンの中から、
「ン~~ぐわッッ!」
っと1回だけの大きないびきが響き渡って、お互いに笑いを堪えた時、おでこ同士がぶつかった。
「痛っ!」
「くくくくっ。」
バスは週末に都心へと向かう高速道路で渋滞していたが、解散の時はまだ夜も早い時間だった。
凛子の家の最寄り駅まで電車で来て俺達は指を絡めたまま手を繋ぎ階段を上って地上へと出た。
「ねえ、遠回りして帰ろ。」
「いいよ。」
凛子に引かれる様に歩き出す。スノボとかの道具も雪の中で遊ぶ防寒具の類も無い俺達の荷物は小さなバッグ1つだけだから少しの遠回りも苦にならない。そのまま歩いて特に買い物も無いのにいつものスーパーの前を通る。
「紳士君に買い物の楽しさを教えられたねー。」
まるで思い出を振り返る様に凛子が話す。これも、あと1週間しかここに居ないからなのかと思い俺は頷く。
「うん。買い物、楽しい?」
「楽しいよ。紳士君に色々教えてもらうのが好き。」
「そうか、俺より賢い君に教える事があって良かったよ。」
「うふふ、課外授業では紳士君に僕は敵わないね。もっと勉強したかったな。」
「まだ出来るさ。」
「そうかな。」
少し寂しく凛子の声が響く。
またゆっくりと歩き、既に今日の営業を終えた書店の前を通る。
「ガイドブック、もう買う事も無いかな。」
「もし必要なら言ってくれ。俺の感性で選んであげるよ。」
「ふふ、紳士君のは実用的過ぎるよ。女の子はショッピングや食べ物が重要なの。覚えておいてね。僕以外の誰かと行く機会が有ったら先ずは美味しそうな食べ物の写真を選ぶんだよ。」
「ああ、もし、行く機会が有ったらね。」
その時、凛子の手が強く握って来たのを感じた。
いつもの公園に来た。
もう誰も居ない公園に入り、いつものベンチに座る。
「僕が居なくなったら将来の紳士君はどうするんだろう。」
「ここに大師匠が居る。たまに来て教えを説いてやるよ。」
「大丈夫かなー、恋愛も教えて上げないといけないのよ。彼女の気持ちを察して泣かさない様にね。」
「そ、それは難しいな。恋愛に関しては俺も知らない。まぁそこは、一緒に成長するとしよう。」
「うふふふふ、しんぱ~い。紳士君、いざという時に冷静になっちゃうからなー。」
「・・・、昨夜はごめん。」
「そ、そんな事、今、言うの? あれは少し酔っていたから、恥ずかしいじゃない。止めてよ。」
「ごめん。」
「謝られると余計に惨めになる。」
「・・・。」
「でも、ここには楽しい思い出がいっぱいだよ。この場所が好き。紳士君が居ない夜にね、たまーにここに来るの。そして帰るとすごく良く眠れるのよ。ほんと。」
「ここは俺達の待ち合わせ場所だからね。あっ、アイスティー買って来るの忘れた。参加条件だったのに。」
「うふふ、今は冬だからね。さあ、帰って負けた貴方の温かい紅茶でも飲もうかな。」
「何か腑に落ちないな。いっつも俺が勝負に負けてる。グレーな不正を感じるんだ。」
「あはははは、気のせい気のせい。僕の魅力に女神が微笑んでくれたんだよ。」
凛子の家に入る。
この中は思い出に満ちている。
ずぶ濡れで立ったこの玄関。楽しい会話とお揃いのエプロンで作る簡単な料理。食事を摂るテーブルにも、リビングのソファーにも、床にも壁にも天井にも都会を見渡す窓にさえ凛子との思い出が染みついている。俺達は手を搦め合ったままリビングへと進み窓の外を眺めていた。最初に凛子と手を繋いだのは、この場所で一緒に住む契約を交わした時だ。あれは手を繋ぐとは言わないか。
前日より住人の居なかった部屋はひんやりとしていて寒かった。暖房と言えばエアコンだけなので部屋全体が温まるには時間が掛かる。凛子は自分の部屋で着替えて来ると言って俺と繋いでいる手を離し自分の部屋に入って行った。
一人リビングに残った俺は今更ながら凛子との暮らしが後1週間で終わるのを思い知らされた。
後1週間で凛子の声が聞けなくなる。
後1週間で凛子の笑顔が見られなくなる。
後1週間で凛子と手を繋げなくなる。
後1週間で凛子と暮らす日々が全て思い出だけになる。
後1週間で俺の時間のほとんどを占めていたものが無くなる。
俺はどうすればいい。
急に不安になる。さっきまで凛子と一緒に歩いた時を再び振り返らずにいられなかった。あの凛子の話し方、声のトーン、それよりもいつもとは違う俺への切り返しの言葉に俺はこの胸の中に何かしらモヤモヤしたものを感じている。昨夜の事なのかそれとも帰りのバスで見た涙の事なのかは判らないが何かがだ。いや、凛子ではなく俺に足りないものだ。俺は凛子を必要としている。俺の方が凛子を必要としている。このまま居て欲しい。何処にも行かないで俺の傍に居て欲しい。俺と手を繋いで、俺に笑顔を見せて、俺に笑いかけて欲しい。もっとわがままを言って欲しい。例の計画を実行しようか。いや、出来ない。俺は心の中で葛藤している。
気が付くと涙が零れていた。
窓の外に向いて涙を落としていた。頭を垂れて背中と肩を震わせ、声は出さないものの拳を強く握りしめ身体を硬直させて泣いていた。凛子が部屋から出て来たのも気付かないままに。
突然、凛子が俺の背に抱き付いて来た。
俺の背中には昨夜の凛子の胸の感触が残っている。今、同じ感触が俺を昨夜の時間へと引き戻す。後ろに居る凛子へと呟いた。
「ごめん凛子。 本当にごめん、俺にあと少しだけ、あと少しだけ勇気が有れば・・・。」
「違う、違うの。ごめんね。僕がいけなかった。僕がいけなかったの。君を追い詰めた。許して・・・。」
「君を抱きたい。抱きしめたい。ベッドが無茶苦茶になる程君を抱きたい。 でも、出来ない。君を傷つける事が出来ないんだ。大切な君を傷つけられない。許してくれ。」
「違う、違うよ。謝るのは僕の方。ごめん、ごめんね。君を傷つけた。」
「君の母さんが言ったんだ、娘をよろしくってね。君の母さんは1人で頑張ってる。君が傷つかない様に頑張ってる。それなのに俺が傷つけちゃいけないんだ。何が有っても、絶対に、君には傷を付けてはいけないだ。」
「分かってる。それなのに僕は君を追い詰めた。悪いのは僕。貴方じゃない。」
「君の母さんを思い出さないと我慢できないんだ。自分の気持ちが抑えられないんだ。俺の気持ちをぶつけたら君が傷つく。でも後1週間しかないんだ。俺、もう、どうしていいのか分からない。」
「ごめんね、許して。君をこんな事に誘ったのは僕だから。僕が悪いの。許して。」
俺は抱き付いた凛子の腕を解き、彼女に振り向いて強く抱きしめた。凛子も泣いている。小刻みな体の震えを直接感じていた。
どれくらい抱き合っていたのだろうか、どちらかともなくその力を緩め、お互いに泣き顔で向き合うと、凛子が真剣な表情で囁く様に言った。
「好きだよ。」
「・・・。」
「コラ、白状しなさい。」
凛子は戸惑う俺に向かって目に涙を溜めたままの笑顔で真っ直ぐ静かに問い詰める。
「俺は凛子を守・・‥いや、俺は 小鳥谷 凛が好きです。」
「私は一ノ瀬 瞬が好きです。」
凛子は笑顔を見せるとゆっくりと瞼を閉じ、俺達は初めてキスをした。
唇だけを重ねたキス。それが離れると再びお互いの目を見てからもう一度強く抱きしめ合った。ゆっくりとした息遣いが俺の気持ちに安らぎを与えてくれる。心に突っかかっていた何かが取れた、今まで我慢して来た何かが無くなって心が軽くなった。今まで言葉に出したかったものを出してすっきりとした感じである。抱きしめている腕の中で凛子が囁く。
「ありがと、今まで君がくれた思い出で、今のが一番素敵で、一番うれしい。」
その言葉を聞いて、俺達はもう一度唇を重ねた。
「ねえ、瞬。私のわがまま聞いてくれる?」
「何?」
「貴方が入れてくれるロイヤルミルクティーがもう一度飲みたいの。甘いのをお願い。」
「分かった。」
楽しい思い出ばかりのキッチンに2人で立ち、凛子は俺がロイヤルミルクティーを作るのをじっと見つめていた。
ソファーに座り、手を搦めたままで飲む。凛子はこの家の中での思い出をしみじみと繰り返し話している。
「凛、君の目標はどの位達成できたの?」
「もう、どうだっていいの。貴方が気持ちを伝えてくれたから。それが全て。何より大きなプレゼント。」
「そうか、それは良かった。俺も君から大きなプレゼントをもらったよ。ありがとう。」
ロイヤルミルクティーを飲み終わってもしばらく俺達はソファーに座って思い出を辿っていた。やがて凛子が眠るからと言って、洗面所に歯を磨きに行く。俺はカップを洗う為にキッチンに立って洗い物をしていると、凛子がやって来て、
「おやすみのキスして。」
と言いながら俺にキスをする。手が濡れている俺は凛子を抱きしめる事が出来ない。俺はただ凛子に抱きしめられながらキスを受けた。唇が離れ、『おやすみ』と言って凛子は自分の部屋に消えた。
俺はやっぱり帰って来ない彼女の母親の部屋で寝る。
翌朝、いつもの時間に起き、学校に行くために早く凛子の家を出る。
2月も後1週間で終わる。俺は持って帰る荷物をまとめながら次に凛子にどんな思い出を作ろうかと考えていた。
玄関で振り返るも凛子はまだ起きて来なかった。
宿に泊まった時の朝食って食べ過ぎちゃいませんか。とても良く食べられる気がするんですが。
気分が良いのか、本当に美味しいのか。きっとその両方ですよね。
雪だるま。今度、作ってみようかな。