13 もう少しだけ
凛子が日本から居なくなり、街はクリスマスの楽しく明るく煌めいた雰囲気に包まれている。あと数日で今年の授業も終わり、年末年始の休みが始まろうとした日である。俺はスズに呼び止められた。
「ねえ一ノ瀬君、今日の放課後時間ある?」
「ああ、暇だよ。」
いつもの様に特に予定など無い俺は気軽に答えた。以前に凛子が落ち込んでいた事など既に忘れていた。
「良かったー、一緒に買い物に付き合って欲しいんだ。」
「買い物?」
「うん。弟のクリスマスプレゼントなの。中学2年の男の子って何が良いのか分からなくて。」
「ふーん、いいよ。」
「じゃあ、一緒に帰ろうね。」
「ああ、あ、ちょっと。カズには言って置いてね、変な詮索されない様に。」
「ふふっ、分かった。じゃあね。」
今日だけ女子グループ公認?の俺達は教室から一緒に出て、買い物へと向かった。
「一ノ瀬君は進路どうするの?」
「私立の理系コース。」
「じゃあ私とはクラスが離れちゃうのね。私ね、私立の文系コースなの。一ノ瀬君は上位者だから理系コースのAクラスね、私はあまり成績が良くないから文系でもBクラスかな。教室遠いな。」
「スズの仲のいいグループはどうなるの?」
「皆バラバラになっちゃうみたい。ねえ、凛子はどうするか知ってる?」
「知らない。」
「そうかー、彼女だけ言わないのよねー。まあ、成績優秀者だから何処にでも行けると思うけれど。」
そんな事は無い。凛子は何処にも行けないんだ。行きたくても、行けないんだ、そう思うと自然に手に力が入り、拳を強く握っていた。
「ねえ、一ノ瀬君。 一ノ瀬君ってば、聞いてる?」
「えーと、何だっけ?」
「はぁ、カズが言っていた通りね。話の途中で聞いているのかいないのかがわからなくなっちゃうって。」
「授業はちゃんと聞いてるよ。」
「あははは、さっすが成績優秀者。」
「凛子なんかは授業も聞かない、ノートすら取らない、でも成績がいいんだ。」
「へー、ってノートに何も書かないの?」
「あれっ? 以前にカズ達と持ち物検査したんじゃないの?」
「うん、私ちょっと怖くて見ていなかったんだ。一ノ瀬君と凛子が付き合ってるかもって。」
「だから、付き合ってはいないよ。」
「そうみたいで安心した。」
「私ね、一ノ瀬君の事、好きなんだ。」
その時、思い出した。以前に凛子がスズとでギクシャクした事を。俺は凛子の事だけで忘れてしまっていた。
「俺は学生の間は誰とも付き合わないって決めているんだ。」
「うん、以前に凛子から聞いてる。それでも、私の気持ちを伝えたかったの。もう直ぐクラスが離れちゃうから。」
「俺なんかよりちゃんと付き合ってくれる人がいるんじゃない?」
「かもね。でも、自分の気持ちには逆らえないの。黙っていようとすればする程苦しくなっちゃうの。きっと卒業するまで変わらないかも。」
「えーと、ありがとう。」
「ううん、面倒くさいって言って。その方がスッキリするから。」
「いや、でも。」
「だから今日は恋人気分で居させて。それで忘れるから。」
「忘れられるの?」
「もー、私が頑張って忘れようとしているのにー。」
「ごめん。」
「きっと忘れられないよ。でもいいの、思い出さえ有れば。1つの思い出さえあれば、後になって『あー、高校時代に男の人と楽しい時が合ったな』って懐かしむ時が来ると思うのよ。だって、女友達との思い出だけじゃあ寂しいでしょ。」
俺は少しためらっていた。スズへの印象が違ったからだ。いつもはグループの中で大人しく隠れる様にしている印象しかなかった。こんなに積極的に話し掛けてくるなんて、それにそんなに話した事の無い俺に自分の気持ちをストレートに投げかけて来るなんてと思いながら。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、ああ。」
「まただ、やっぱり急に気持ちが何処かに行っちゃうのね。」
「ごめん。」
「ううん。だから今日、この買い物だけは恋人気分にさせて欲しいの。お願い出来る?」
「分かった。」
「手、繋いでもいい?」
「うん。」
スズと手を繋ぐ。
『違う』、どこか心の中で聞こえた気がする。『確かに』、そう身体が答える。
繋ぐ手の角度、握る強さ、触れる親指の位置、手の中に感じる指の太さ、どれも俺の体に染みついているものと違う。他の子と手を繋いだことで急に凛子を思い出した。頭ではなく体がだ。俺の日常にあった凛子の感触が蘇って来る。探している。求めている。自分でも気付かないうちに繋いだ手を見ていた。
「どうしたの?」
スズの声に気持ちを呼び戻される。
「いや、スズの手ってこんな感じなのかなって。」
「ふーん、どんな感じ?」
「妹の陽菜とは違うなって。」
「妹は何歳?」
「15、来年受験でうちの高校受けるって。」
「本当、15才の手とは違うわよ。 凛子の手は?」
「うん、違うなって思う。」
「そう、どっちが良いかは聞かない。今日は私の恋人だから。」
俺はスズに謝った、当然心の中の話である。やっぱり凛子の手がいい。凛子と手を繋ぎたい。
スズの弟は来年受験という事で、相談した結果『ペンケース』を買う事にした。名入れのサービスがあったので、店員にお願いしてメッセージを刺繍してもらった。
【がんばれ! 涼花】
まるで自分へのメッセージみたいだ。それでもこれを弟が見る度に自分の気持ちを見てもらえる様だと喜んでいた。
「ありがとう、素敵なプレゼントが買えた。あのぅ、一ノ瀬君。」
「何?」
「もう少し、もう少しでいいから、私と一緒に居てくれる?」
「分かった。今日はスズの恋人だからね。」
「ありがとう。」
同じビル内にある店でケーキセットを食べ、ウインドショッピングを手を繋いで回る。終始スズは楽しそうに話し掛けて来て、俺は相変わらず答えるばかりだった。
駅の改札へと向かう。
既に夕方のラッシュの時間帯も少し過ぎていて、人の流れもスムーズになっていた。俺とスズは路線が違うので改札を過ぎたら別々の方向に進む。
「今日はありがとう。弟と私に素敵なプレゼントがもらえたわ。」
「何もしてないよ。」
「ううん、手を繋いでくれただけでいいの。高校生活の思い出になったから。あー、少しだけ勇気出してよかったー。」
「ごめん、期待に応えられなくて。」
「いいの分かっていたから、一ノ瀬君が彼女を作らないって。だから、これで十分。じゃあね。」
最後にスズは握手を求めて来たので俺もそれに答えた。笑顔を向けると、さっと振り返ってスズは自分の家が在る路線の方へと歩いて行く。俺も自分が乗る電車へと向かって向きを変えた。心のどこかで凛子に会いたいと願っていた。その時は必ず手を繋ごうと。今度手を繋ぐ時はもっとよく凛子の手を見ようと、そして何故、凛子と手を繋ぐと心が落ち着くのかを探そうかと思った。
翌日、特にカズ達からの詮索も無く、スズとは話す機会も無いままに学校は休みになった。
新年を迎えた3日、凛子から年賀状が届いた。
京都からの帰りの新幹線の中で、向こうの国から年賀状を出したいからと住所を教えていた。日本郵便の年賀ハガキに外国の切手と読めない文字での消印が押されたちょっと風変わりな年賀状だった。しかも新年開けての3日って、もう明日は帰って来て直ぐに学校で会うのにと思って読んだ。
凛子が居なかったのに何の不安も感じないで過ごしていた。それは必ず帰って来てまた会えるという事が起因していたのかもしれない。
新学期が始まり、学校で久しぶりに凛子に会った。連絡先の交換をしていない俺達は学校で会う事が始まりになる。
「お帰り。」
「ただいま。僕の年賀状届いた?」
「ああ、3日に来たよ。」
「びっくりしたんだ、向こうの郵便局っぽい所で言葉が解らないからうんうん頷いてハガキを出したら、お母さんが『それじゃあ12日以上かかるよ』って言うんだもの。もう出した後でだよ。」
「お母さんは?」
「久しぶりで喜んでいた。紳士君によろしくって言ってたよ。ああ、それから向こうの住所教えるからたまにはラブレター書いてだって。」
「親子揃って、俺を何だと思ってるんだ。」
「ふふふふ、今夜は泊まれるの?」
「ああ、通常通りでいいよ。」
「やったー、一緒にお買い物して夕飯食べようね。」
久しぶりに手を繋いで買い物をした。あんなに手を繋いだらしっかり観察しようと思っていたのに、その日常が、当然の様な手の感触が全てを忘れさせ、ただ手を繋いで歩いた。行き場の無かった俺の手は凛子の手の中で安心して当然の様にその場所に落ち着き、何の違和感も無い事が全てを忘れさせてしまった。
いつものキッチンで並んで夕食の準備をしている。
「ねえ、紳士君。初詣、いつにしようか。」
「調べたら大神宮って凄い人気の所なんだね。」
「そうだよ、だから言ったじゃん。」
「次の週末はまだ正月気分が残っていて混みそうだから、来週の土曜日にしようか。15日。本当の成人の日だね。」
JR飯田橋駅を降り、東北のアンテナショップを過ぎて左に曲がると参道とは思えない少し寂しい感じの飲食店が続いている。それを見ながらコンビニを過ぎるとやや右カーブの下り坂となって、その左に大神宮は在った。もう新年が開けて半月が過ぎているにも係わらず多くの女性が参拝に訪れている。石段を登って手水で清め、更に石段を登ると本殿が見えた。思った以上に小さく感じられる。カップルも多い。京都の時と違い、ここを訪れる人は皆若い。俺達もしっかりと参拝して、お土産にお守りとおみくじを引く予定だ。
「今日は大吉が出るまで引くの。」
「はぁ? おみくじってそういう物じゃないでしょ。」
「いいの。大吉を引いて、それをずっと持っていたいの。」
そんなやり取りをしていたら凛子がお参りに来ていた夫人とぶつかってしまった。
「も、申し訳ありません。」
「あーいえいえ。こっちこそごめんなさいね。」
その方達はお参りというよりは何かの会に集まった方達で、本殿の左にある近代的な建物から出て来ていた。ご主人と思われる男性はここの神社の名前が入った白い紙袋を2つ手にしている。やっぱり男性が荷物を持っているんだなと思っていると、
「今日はね、ここで結婚式を挙げた人たちの同窓会みたいな集まりが合ったんだ。」
ぶつかってしまった奥さんにマフラーを渡しながらご主人が笑顔で話して来た。
「僕達は結婚して33年目なんだ。ここの禰宜さんと同期。あーあそこに居る水色っぽい袴をはいている人だよ。」
「ねー、あなた何言ってるの? 初めて会った人に。済みませんねー。」
「良かったらこれ上げるよ。毎年参加賞で貰えるんだ。じゃあね。」
男性は少し酔っているのか上機嫌で、奥さんに自制するよう言い聞かされ、さながら弟を教育する姉の様な会話をしながら去って行く。それでも、人とぶつかりそうになるとご主人はそっと奥さんの腰に腕を回して道を誘導していたのがとても印象に残っている。
貰った物は今年の干支をあしらった絵馬の根付で、雄黄色の金属製の絵馬の窪みに菫色の塗料を流し込んだ物でその絵馬には紫色の糸で編まれた紐がついていた。絵馬の裏には東京大神宮の名と伊勢神宮と同じ『花菱紋』がある。
凛子はその夫婦が見えなくなるまでその場所に立っていた。
おみくじを引くと凛子は大吉を1回で引き当て、その喜びようと自慢は言うまでもない。
2月になり、俺達の時間は加速度を上げた。1日が過ぎるのが早くなった気がする。
凛子との日常はもはや俺の日常で、全ての時間を凛子に預けていた。残り2週間。凛子が言う。
「今度の週末は大イベント、雪まつりです。」
「雪まつり? 北海道?」
「ん~、そこまでは行ってられないので、スキー場に行こうと思います。」
「はい。」
「今度は僕がツアーを組むから、いいよね。」
「任せるよ。」
「雪。」
凛子はその一言を言うと暫く黙ってしまった。
「スキー場だと日帰りは無理かな?」
「泊りでもいい?」
「凛子に任せるよ。全て。」
「ありがと。」
彼女は笑顔になり、スキー場でやりたい事を次々と話していた。
金曜日の夜中。もう土曜日になっている。
集合場所には多くのスキーヤーが集まり、ツアーバスに乗り込んで出発した。思っていたよりゆったりとした椅子で、倒すとほぼ水平になって眠る事が出来る。カーテンまで付いてプライベートな空間も確保されていた。
凛子と隣の席の俺は、カーテンを閉めるとその2人だけの狭い空間に緊張した。いつも手を繋いで直ぐ傍に居て平気なのに、カーテンで仕切られた空間は2人をもっと近い感じに押し込めていたのだ。どことなく凛子も緊張しているみたいだ。
「ねえ、紳士君。手、繋いでくれる。」
「うん。」
手を繋ぐと何故だか安心した。2人の距離がいつもの距離になった様な気がしたのだ。
シートを倒して横になった俺達は笑顔を見合わせて、眠りについた。
運転手の休憩を兼ねて、バスは何度かパーキングに止まったが俺達はそのまま眠り続けていた。スキー場に隣接している宿泊施設に着き、全員が降りる。
真っ白な世界が広がるその緩やかな丘に真っ赤なトンガリ屋根のホテルは建っていた。白い壁に構造物である黒っぽい木の骨組みが綺麗な幾何学模様を描いているおとぎ話に出て来そうな建物だ。ここはファミリーゲレンデも充実していて家族連れも多く、週末のこの日は多くの人が来ていて楽しい声が響き渡っている。
俺達はスキーウェアやスノーシューズ、雪用の手袋までの一式をレンタルして、スキーはせずに子供用のソリを1つ借りる。スキーなんかはした事も無いし、スキースクールで時間を使う暇もない?くらいに目標を掲げて来ていた。とにかく、雪で遊び尽くすのだ。
早速、ソリに凛子が座ってそれを俺がファミリーゲレンデへと引いて行く。小学生でも高学年くらいから上の人達は皆、スノボかスキーの板を持ってリフトへと向かっているが、俺達が目指すのは小高い丘である。さすがに丘の上までは引き上げる事が出来ずに途中で凛子を下ろすと、笑いながら、
「どうして筋肉鍛えて来なかったの?」
等と言って来た。息を切らせながら俺が口答えする。
「雪山は滑り降りて遊ぶのもので、重い物を上げるための筋肉は要らないだろう。」
「えー、私が重いって言うの? それに、紳士君は馬車馬の様に駆け回るって言ってたじゃない。あはははは。」
「あのなー、馬車馬は普通の道を走るんだよ。雪の上は【ばんえい馬】の仕事なの。」
「じゃあ、ばんえい馬になって。あははは。」
「既に多重人格じゃなくなってるだろ。変身は出来ないんだよ。」
「あははは、変身してー。あははははは。」
何をしても凛子は笑っている。
真っ新な誰も踏み込んでいない雪の積もった所に大の字で倒れ込んでも笑い、雪をかけ合っても笑い、当然、ソリで滑り下る途中で倒れても笑っている。俺は幾度となく凛子を乗せたソリを小高い丘の上まで引き上げる努力を強いられた。
力仕事で疲れた俺と、笑い過ぎて疲れた凛子は昼食の為にホテルへと戻った。
暖炉の炎を見ながら昼食を終わらせると、外は知らない内に吹雪いており、全ての人がそれぞれの宿へと帰っていた。俺達もそのまま部屋にチェックインして、ゆっくりと過ごす事にする。
凛子の予約した部屋はツインルームだった。当然凛子が予約したのではなく、母親に頼んでツアーの予約をしている。
「ごめんなさい。ここしか取れなかったの。」
「まあ、凛子が良いって言うんだったら俺は構わないよ。」
「本当、ありがとう。でも、ドキドキしちゃうね。」
「ま、まあ、凛子の家は壁が有ったからね。・・んと、何か飲む?」
「うん。」
2人で部屋にある小さな冷蔵庫の所に行くとティーバッグが有ったのでいつもの様に俺が注いで、窓際の椅子に座って飲んだ。
「雪、止んでくれないかな。」
窓の外を見ながら寂しそうに凛子が呟いた。
吹雪でする事も無いので、温泉に入って夕食を食べて、また温泉に入った。
する事も無い俺達はそれぞれのベッドの上でくつろいでいると、突然凛子が冷蔵庫の所に行き、中から白ワインのボトルを持ち上げた。
「飲まない?」
「ああ、いいよ。でもおれは未成年の紳士なんじゃないの?」
「そうよ。でも女性が飲みたいって言っているのよ、黙って付き合うのが紳士君なんじゃないの?」
「結構、自由な解釈だな。凛子は平気なの?」
「うん、海外に行った時は食事に出て来るから。」
「へー。」
部屋には首の短いワイングラスも有り、窓際のテーブルでボトルを開けた。
「何に乾杯するの?」
グラスを手にした俺が凛子に聞く。
「今までの楽しい思い出と、それを作って来た僕達に。」
「いいねー、じゃあ乾杯。」
「かんぱーい。」
グラスを当てる事も無く、軽く持ち上げて乾杯する。静かな乾杯だ。
国産と書かれているそのワインは少し甘く、冷えた感じが丁度良い。軽快に喉を過ぎて行く。見ると凛子はグラスを一気に飲み干していた。
「平気なの?」
「うん、乾杯だから、最初は飲み切らないとね。」
「いや、日本酒じゃないから、ワインでそんな話し聞いたこと無いよ。」
「んふふ。僕の行く国はもっと小さな子供も飲んでたりしてるんだ。男の子は煙草だって吸ってる。男性社会の一員としての身嗜みなんだって。」
「気の毒だね。きっと飲めない子も居ると思うよ。」
「紳士君はどうなの?」
「家ではたまに飲んでる。両親ともお酒が好きなんだ。色んなのを飲んでるよ。食事に合わせてね。いや、食事を酒に合わせているのかも。」
「いいなー仲良しで。憧れるなー。初詣で会ったご夫婦もとっても仲良さそうだったよね。あんな風に長く一緒に居られたらいいね。そうだ、お願いだから紳士君は煙草は吸わないでね。紅茶の香りが楽しめる様に。」
「うん、きっと大丈夫。親父も吸っていないから。凛子は?」
「僕は煙草の煙が苦手なんだ。だからちょっと心配。」
窓の外に降る雪が音を吸収しているのか、余りにも静かな世界に俺達の会話はどことなく沈んで悲しい方向に向かっていた。それは、俺だけでなく凛子にも分かっている様だが、どうしようもなく時間が過ぎて行く。あと少しで終わる2月の短い日々がそうさせているのかもしれない。
空になった凛子のグラスに俺は再びワインを注ぐ。いつの間にかボトルは半分以下になっていた。
気分を変えようと俺が話題を変える。
「明日は何する予定なの?」
「雪だるま。これは外せないでしょう。あーぁあー雪、止んでくれないかなー。」
寂しそうに窓の外を凛子が見るので、俺は立ち上げり真っ暗な窓の外を伺う様に覗いていた時である。
いきなり背中から凛子に抱きしめられた。
俺の身体にしっかりと腕を巻き付け、その身体を密着させた。俺の背中に凛子のまだ膨らみきっていない少しの堅さを残した若い胸が押し付けられる。そして静かに言った。
「怖い。やっぱり怖いの。」
驚いて動く事の出来ない俺はただ立ち竦んでいる。
「このまま、私は何処に行くのか、何処に居るのか分からなくなるのが怖い。ただ、囲われてアクセサリーの1つになるのが怖い。私で無くなるのが怖いの。どうすればいい?」
「・・・。」
「皮肉よね、私の苗字の小鳥谷が本当のカゴの中の鳥になっちゃうなんて。貴方といっぱい楽しい事をして大空を知ってしまったのに、小さなカゴに入れられてしまうのよ。どうすればいいの?」
「・・・。」
「私は何歳まで生きるの? あと何年生きるの? 何年生きればいいの? 何年生きたら死ねるの? それを考えたらどうしようもない位に落ち込むの。その長い時間、私は何処で何を考えて、何に希望を持って生き続ければいいの? 何を手にして、何にすがって、何に感動して、それを誰と共感すればいいの? 考えただけで耐えきれないの。死のうと思った事もある。でも、出来ない。お母さんが頑張っている。お母さんが1人で頑張っているから。お母さんだけは悲しませたくないの。でも・・・。」
「・・・。」
「あのね、お母さんずっと謝り続けていたのよ、私に結婚の話が来た時に。ずっと泣きながら謝っていたの。自分が連れて行ったからだ、自分が離婚したからだ、自分が商社に務めたからだってね。ううん、もっとさかのぼっていたわ。自分の全てを否定して謝っていたの。今でも覚えている、私をベッドに座らせて、お母さんは床に座っていた。事有る毎に床に頭を付けて謝っていた。ううん、ずっと床に伏せていたわ。私ね、良く分からなくてただお母さんの話を聞いていたの。涙も出ていなかったわ。お母さんね、顔を上げた時、いつものお母さんじゃ無くなってた。泣き続けて目の周りが腫れて、いつものお母さんじゃ無くなっていたの。それを見た時私泣いちゃってね、お母さん、抱き付いて来た。強く抱き付いて来たの。ずっと2人で泣いたの。そんなお母さんを悲しませたくない。お母さんだけは・・・・。」
「・・・。」
「あぁ、余命宣告されたい。」
「・・・。」
「そう思った事もある、憧れた事もあるの。あと1年です。あと3ヶ月ですってね。そうすれば逃れられる。そうすれば希望を持って生きられるでしょ、終わりが見えるから。・・・・酷い事言ってる私。凄く酷い事言ってる。生きたいって思っている人がいっぱいいるのに。1日でも、1時間でも、いいえ1分、1秒でも生きていたいって願っている人が居るのに、私って酷い・・・。キライ。」
「・・・。」
「抱いて・・・。」
俺はやっぱり動けなかった。
「抱いて、・・下さい・・・。」
抱きたい。振り返って抱きしめたい。抱きしめてそのまま凛子の胸の中に包まれたい。凛子を包みたい。そのままベッドに押し倒して凛子と一緒に無茶苦茶になって忘れたい。
でも出来ない。勇気が無いから。ほんの少しだけの勇気が無いから。
もっとワインを飲んで、酔っていれば良かった。まだ思考が働いてしまっている。凛子のお母さんの事を思い出してしまう。凛子の母さんの泣いた顔を思い出してしまう。俺は頭を垂れて、俺に抱き付いている凛子の腕を強く抱きしめた。
「ごめん・・・。」
凛子の腕から急に力が抜け、俺の腕をスルリと滑る様に抜いてそのまま体も離れて行った。
「なーんてね・・・。じょ、冗談だよ。・・・おやすみ。」
俺はそのままの状態で動けずに、背後で凛子がベッドへ潜り込む音を聞いていた。
「ごめん。」
俺がもう一度言うとベッドからは声を殺してすすり泣く微かな音が聞こえて来た。
もう少し、もう少しだけ俺に勇気が有って、凛子を抱きしめていたら彼女は泣かなくて済んだのだろうか。今も、この先も。さらにその先もずっと。
ゲレンデに行ったのっていつだったかな。
2本ぐらい滑るともう十分ってなって、仲間と飲んじゃうんだよねー。
スキーに来たのか、飲みに来たのか分からない位に。
評価、有り難う御座います。とっても励みになります。
って、これはもう書き終えてあるので、この先の評価が不安です。