10 声を届けるのなら
あの日以来、凛子は泣かなくなった。いつも笑っている。
凛子の楽しい思い出はどの位溜まったのだろうか。まだ10代の俺達はその先の人生が長い、そんな長い人生を楽しめる程の思い出を俺は凛子に作って上げられているのだろうか。いつもそう思い、自分の家に帰った時は不安と共に焦燥感に駆られる。
俺達の通っている高校は一応進学校で、高2の2学期からはそれぞれの進路に向けた選択科目の授業に別れる。そして3年で進路に沿ったクラスに完全に別れるのだ。生徒達の話題も何処の大学を受験するのかと言った事や、進路に向けての話題が多くなっている。
「ねえ、紳士君はどうするの?」
凛子の持っていた花の付箋が無くなったので新たな付箋を買いに文具店に向かって手を繋いで歩いている。
「俺は私立の理系コース。」
「ふ~ん。将来は何に成りたいのか決めているの?」
「ああ、開発者に成りたいんだ。何の開発かは決まっていないけれどね。」
「へ~、どうして?」
「格好つけるようだけど、皆の生活を楽しくしたいんだ。例えばスマホだってそうだ。ノーベル賞を貰う様な人はいないけれど、物凄く多くの人が、物凄く多くの物を少しでも良くしようと思って開発しているでしょ。少しでも、前の物よりも良い物をって、でも使っている人はそんな中身の事は知らずにどんどん生活が楽しく豊かになっている。そんな風に人に知られなくても実は皆の回りで楽しい生活を演出するのに携われたら良いなって思うんだ。だから理系。でも文系が苦手だから私立。」
「ふ~ん、しっかりしてるんだね。」
「単に会社の歯車の1つになるだけだけれどね。でも、社畜は嫌だ。」
「あははは、紳士君なら大丈夫だよきっと。」
「そうかな、心配なんだ、宿題もしっかりやって期限内に提出して、朝早く起きている。社畜要素満載なんだよ俺って。」
「あははは、大丈夫大丈夫。自覚が有るなら平気だよ。」
「いや、社畜ってのは、要は洗脳だろ。大丈夫って思っている奴程掛かってしまうんだなー、催眠術のようにね。」
「それじゃあ、気が付いたら社畜になってるって事?」
「ああ、そうなんだ。だから俺は今から鍛えてるんだ、社畜にならない様にこの精神をね。」
「あははは、どうやって?」
「凛子が上目遣いでお願いしても、それが正しいか、不合理なのかを判断するようにしている。」
「あはははははは、それじゃあ僕が君を洗脳しているみたいじゃない。」
「もう既に陽菜が洗脳されているんだ。俺も気を付けないと。」
「あははははは。」
文具店には数え切れない程の種類の付箋が有った。中には何処にメモを書き込むのか分らない位にキャラクターの形が歪だったり文字が目立たない様な色が付いていたりと様々である。そんな中で凛子はブサイクな猫のイラストを用いた付箋を選んだ。意外と味が有ってじんわりと後から可愛さが伝わって来る。
「どうしてそれにしたの?」
「何かノラ猫って感じしない? それを僕が保護して、夢と希望を文字で与えて、紳士君と思い出にする事で自由な世界に解き放つの。どう? 夢があるでしょ。」
「何匹いるの?」
「えーと、50枚だから、50匹。」
「多頭飼いだな。飼育崩壊しない様にさっさと解き放たないとダメだね。」
「あははは、頑張ってね。」
「2人で楽しむんだろ。」
「うん。」
10月に入りもう街中も秋の景色に変わっている。ここ都心ではまだだが、山間部からは紅葉の情報も聞こえて来る。繋いだ手の温もりが心地よく感じられ、自然と体も近くになっている。ビルの間を過ぎる風は、時に強く、街路樹は紅葉よりも先に枯れた落ち葉たちが強い風に路面を滑りながら競争するように走って行った。
「今度の週末は山に行こうか。」
俺からの提案に凛子は頷き、
「他に僕の部屋のメモで覚えている事は?」
と追及の手を伸ばして来た。
「それだけ。」
「嘘っ!」
「うん、嘘。見て覚えているのはそれに合った時期に言うよ。」
「ありがと。」
「でも、山の頂上で『ヤッホー』って叫ぶのは止めて欲しい。」
「え~~、いいじゃん。きっと楽しいよ。」
「恥ずかしいだろ。」
「え~~、いいじゃん、いいじゃん。一緒にやろーよー。」
凛子は自分の体と繋いでいる手を振りながら悪魔の上目遣いで攻めて来る。
「じゃあ、1回だけ。」
「2回。」
「いいや、1回だけ。」
「3回。」
「何で増えるの?」
「ふふー、楽しいから。」
「じゃあ、4回。」
「おー、そう来たか。4回ね!」
「うん、4回。俺が1回で凛子が3回。」
「嫌だー、一緒に4回。一緒に思い出作るんでしょ。」
「傍に居てやるから。」
「ヤダヤダ、一緒に4回。」
「じゃあ、何かで勝負する?」
「アイスティーの早飲み。」
「それは却下。凛子がズルするから。」
「じゃあ、帰ってから温かい紅茶を飲みながらトランプで決めようか。」
「そうしよう。少し寒くなったからミルクティーを作るよ。」
「あのロイヤルミルクティー作って欲しいな、もう少し甘みを加えて。」
「分かった。」
「わーい、ねこ君のカードには最初にどんな夢を上げようかなー。」
凛子は繋いでいる俺の手を両手で包んで自分の前に持って抱える様にしている。俺とは体が密着して肩にややもたれかかる様にして歩いていた。
週末の電車は混んでいた。周りの人達の服装からも目的地は俺達と同じだと思われる。
凛子も今時の山ガール風の恰好である。ピンクのミドルレイヤーを着込みショートパンツから伸びる黒色を基調としたノルディック系レギンスの雪とトナカイの柄が可愛い。そこにラベンダー色の靴下が明るいアクセントとなりさらに背負っているバッグの明るい色が楽しさを膨らませている。俺達が向かっている山は登山道だけでなくケーブルカーやリフトなどでも登れるほどの初心者向けの所なのでピクニック気分で行く事が出来る。登山道もしっかりと整備されており、2人共運動靴で来ている。
終点の駅で降りる人は全て同じ方向に楽しい会話をしながらゆっくりと進んで行く。親子連れも多く、込み合っている人混みの中を走り回っては既に怒られている子供も多い。しかし怒っている親も笑顔なので全く意味を成していなかった。そのほとんどがケーブルカーのチケットを買う列に並ぶ中、登山道に向かう人は俺達を含めて数グループだけだった。広い登山道はちゃんと舗装され、これから先に山が在るとは思えないようなゆったりした雰囲気である。ゆっくり歩いても山頂までは2時間も有れば着いてしまうので、皆楽しい会話をしながらの散歩の様でもある。俺達も楽しい話をしながら凛子のペースでゆっくりと歩いている。まだ10時を過ぎたばかりなのに既に下りて来る人達もいて、いつ、何を目的に登ったんだろうね等と想像を膨らませながら笑って進む。いつもの都心と違い開放感と澄んだ空気をいっぱいに吸い込んで凛子の笑う声もいつもより大きい様な気がするが、それを木々やその根元にある植物や土が吸い込んで行き、いくら笑っても平気なようだ。
それでもやっぱり登山に変わりなく、途中からは凛子も口数が少なく、ひたすら前を向いて歩いていた。開けた所では下界となる町並みが遠くの方に見え、山に登っている事を実感している。それからすぐにケーブルカーの到着駅の所に来ると、そこから先はまるで何処かの街中を歩いている様に人が一気に増え、そのまま頂上まで行列になって歩いた。
その山頂と言っていいのかと思う程に平らな所が広がっているその場所には、既に多くの人達が座って楽しそうにくつろいでいる。山頂なのに周囲が木に囲まれて景色は今一であったが取り敢えず山頂到着には凛子も喜んでいる。
「お昼は山を降りてから何か食べようか。」
「うん、喉が渇いちゃった。」
途中で何度も休憩を取り、その都度飲んでいたペットボトルは既に軽く、それを渡して喉を潤す。凛子はそっと顔を近づけ、いたずらっ子の様な少し悪い事を始める前の、あの成功した後の楽しさを思い浮かべてどこか喜ぶ子供の様な目付きを上目遣いで俺に向けて言う。
「ねえ、何処で叫ぶ?」
「ここはあまり景色が良くないね。」
「そうだね、ケーブルカーの駅の所が良かったね。」
「人、多いよ。」
「平気、紳士君と一緒だから。」
「よし、一発やってやるか。あそこからなら俺達の家に向かって叫べるしね。」
2人は肩をぶつけ合って叫んだ後の周囲の人の反応を楽しそうに思い浮かべて微笑みながら喉を潤した。飲みながら俺は思った。どうせ自分達だけじゃなく周りの人を巻き込むなら、ここだと。この山頂こそがベストな場所なんだろうと。
「凛子、ここで叫ぼう。」
「えっ、どうしたの?」
「やっぱり叫ぶなら山頂だ。俺達の家に向ってではなく、日本中に向かって叫ぶなら山頂だよ。」
「やっちゃう?」
「やっちゃおうか。」
ペットボトルを仕舞い、リュック背負って、背筋を伸ばしてから俺達は顔を見合わせ深呼吸をして立ち上がった。山頂の平らな所から崖になる端を示す低い壁の様な平らな石積みとそれと同じ高さでベンチにもなっている石垣に囲まれた中に進み、崖のギリギリまでの所に行って立つ。顔を見合わせながらもう一度大きく深呼吸をして、
「せぇの、ヤッホーーー!」
と一緒に叫んだ。叫んですぐに俺達は笑う。
「あははははは。」「あははははは。」
周りの人たちの会話が途切れる。俺達はもう一度叫んだ。
「せぇの、ヤッホーーーーーー!」
一回目よりも大きく。長く。そして笑う。
「あははははは。」「あははははは。」
「ヤッホー!」
「ヤッホー!」 「ヤッホー!」
周りに居た子供達が叫ぶ。彼等も叫びたかったのだ。俺達は笑いながら見合わせてもう一度叫ぶ。
「せぇの! ヤッホーーーーーー!」
「ヤッホーーー!」「ヤッホーー!」
近くに座っていたおじさんも、遠くの女子会の人も叫んだ。そして皆が笑う。
「あははははは。」「あははははは。」
「ヤッホー!」
「ヤッホー!」 「ヤッホー!」
子供達は際限無く叫んでいる。お父さんも叫んだ。それを見ているお母さんは笑っている。
「凛子、4回目行くよ。」
「うん!」
「せぇの! ヤッホーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
今までよりも大きな声で、息が続くまで長く叫んだ。そして、やっぱり笑う。
「あははははは。」「あははははは。」
凛子は知らない人とハイタッチしている。飛び切りの笑顔でだ。
山頂から下りながら思い出して笑っている。
「みんな叫びたかったんだね。」
「そうさ、叫びたいんだ。日本人は山に登るとヤッホーって叫びたくなっちゃうんだよ。」
「あははははは。素敵だね。あ~~スッキリした~。」
「お腹空いたね。」
「うん。帰りはケーブルカーにしようか。」
「そうだね、早く降りて何か食べよう。」
繋いだ手は山の涼しい風に負けず温もりを感じていた。
富士山に登った事が有ります。小学生の時。夕刻から5合目を出発して、山の家で仮眠を取って山頂を目指しました。
まだ、富士山が凄い行列になる前の話しです。
簡単なハイキングコースもいいですよね、小高い丘や森林の中を歩いて、麓にある小さな食堂でお腹を満たす。気分だけでも食事が美味しくなりますよね。