温泉
「女将、酒がないぞ!」
店の中で、大声を出す客がいた。
「はーい。ただいますぐに。」
「熱い茶くれ!」
「こっちは、渋いの!」
別のとこでも。
普段は静かな店なのに、今日は何かの宴会なのか奥がやけに騒がしい。
「源さん、注意したほうがよくないかい?」
「坊主、そいつぁやぼってもんだ。」
文雄が立ち上がろうとするのを源三は止めた。
「ここは、居酒屋だ。客が求めているものを提供する。」
源三の言っていることの意味がよくわからないでしかめっ面をしていると、さっきまで奥であわただしく動きまわっていた女将が手が空いたのか文雄の前ににやってきた。
「居酒屋で提供するものですか。谷さんは何しにここへ来ています?」
女将の不意の質問に少々とまどった。
「酒を飲みにかな。」
「どうしてですか?」
女将が無邪気に笑う。
「源さんに話も聞きたいし。」
しばらく考えて、答えた文雄に女将はまた同じ質問を繰り返す。
「さて、どうしてでしょう。」
「どうして、どうしてって、飲みたいし、話したい以外にないでしょ。」
文雄は酒のせいもあって少々むっとした。
「店に来た時と返る時の違いです。」
そういわれて、出入りするお客の様子をしばらくじっくり見ていた。
店に来る客は、ほとんど疲れてこわばった顔をしている。まあ、一日働いたんだ無理も無い。
「女将、また来るよ。はっはっは。」
そういって帰る客の顔は、酔っ払っているためか少々緩んでいる。心持ち笑顔の気がする。
「ほとんどの方が昼間は職場で疲れて、この店にやってきます。そして、背負ってきた嫌なことを一時この店で降ろして、休んでいかれます。お客様は、みなさんそれぞれがこの店の主のようにくつろいで過ごされて帰られます。温泉はお好きですか?それと一緒でここでお客様は心の垢を落としてらっしゃるのです。」
なるほど、居酒屋が温泉ね。そういえば、そんな看板をどこかで見かけたな。意味がようやくわかった。
「他の客に迷惑にならねえ程度ならかまわねえ。自由に過ごせばいい。坊主はどうなんでぇ。」
源三に言われて、またしばらく考え込んだ。
「うーん。ここで話していると、気になっていることが少しわかってほっとする。でも、帰るとまた気になることが出てくる。それで、また話を聞きに来る。」
「まあ、こんなしょぼくれでよければいつでも相手してやるさ。じゃあ、またツケで。」
源三はいつもの台詞を残して出て行った。