「信濃の守護」 其の弐
「信濃の守護」 其の弐
義清は小笠原長時の呼び出しを受け、林城に参上していた。
信濃国筑摩郡、小笠原氏の館·林城。
身形を整え、挨拶の為、長時の元へ歩みを進める。
「此度は守護殿の命を受け、埴科郡葛尾城·城主·村上義清、只今、参上仕りました。」
義清よりも十程歳下と思われる男は気のせいか少し窶れて見えた。
「村上殿、よう参られた。顔を上げられよ。」
長時の言葉にゆっくりと顔をあげる義清、その顔は先程の家臣達の前で見せたそれとは違う、また戦場で見せるそれとも違う、身形がそうさせたのか何とも凛々(りり)しい顔である。
「守護殿、御久しゅうございます。少し御痩せになられましたか?」
「はっは。そう見えるか?悩みの種がついておる故、飯も喉を通らん。」
悩みの種とは武田の事であろう。
前の章で述べた武田軍の諏訪侵攻に味方した高遠頼継、しかし、助力したにもかかわらず諏訪領獲得後の対応に不満を抱いた頼継は独断で諏訪へ進軍、高遠頼継を潰す良い口実ができたと言わんばかりに武田方は高遠討伐を決定、高遠合戦が始まる。
この時、高遠側にいた藤沢頼親に娘を嫁がせていた小笠原長時は高遠を支援、武田勢と対峙した。
自害に追い込んだ諏訪頼重の嫡男·寅王を擁立する事で自身の正当性を主張する武田晴信、諏訪衆を取り込み、高遠頼継を孤立させてゆく。
やがて武田軍は頼継の居城·高遠城に奇襲、不意を突かれて城内は混乱に陥り、頼継は敗走、高遠城が陥落、後に高遠頼継は武田家に臣従する。
勢いついた武田軍は藤沢頼親の居城·福与城を包囲するが、後詰めとして控えていた長時の小笠原軍が駆けつけ奮闘、苦戦を強いられた。
武田晴信は同盟を結ぶ駿河国·今川義元のに援軍を要請、今川軍の到着により、武田·今川の双方と戦う羽目になった小笠原軍は敗退を余儀無くされ、持ちこたえていた福与城であったが、敵の軍勢に不利を見越し、武田家臣·小山田信有等を通じて晴信に和睦を申し入れた藤沢頼親。
頼親の実弟が人質として引き渡され和睦が成立、福与城の落城、武田方勝利の形で高遠合戦は幕を閉じる。
この合戦の報せは村上義清の元にも届いており、小笠原長時は敗退したが決して愚将な男ではない事をわかっている義清は、
「先頃の武田との戦、御見事でござった。」
と言葉を選んだ。
「村上殿はそう申してくれるか、守護としての務め果たさんと奮闘したが無様、武田晴信め、諏訪頼重殿の嫡男を前に出し諏訪衆を取り込めば、駿河·今川殿の援軍を引き連れてきおった。誠、一枚上手よ。このまま武田の信濃侵攻を許せば、長時の守護としての立場も危うい。飯も食えぬ日々での。」
さらに不満を述べる長時、
「高遠めは頼りにならず、武田に降りおった。長時は名家の信濃守護·小笠原家血筋を持っている、断じて武田には降らん。しかし、あの戦より悪夢を見るようで武田が恐ろしくもある。正直を申せば、臆しておるのよ。村上殿、長時一人では怖くて戦えん、共に戦ってはくれるぬか?」
戦場に立てば将たる者、決して臆した姿をみせてはならない。
兵の士気が下がる恐れに加え、敵に油断を見せかねない、結果、敗北へ繋がる。
それが憩いにおける一時であれば是非は問わないが、主従における立場、必然の会見においても同じではないか。
仮にも上に立つ者は下の者へ弱さを見せてはならない、義清はそう自分にいい聞かせてきた。
また誇り(プライド)が高い事は悪い事ではない、行き過ぎた誇り(プライド)の高さは時に身を滅ぼす。
武勇に優れている事は確か、将ではなく、一家臣としての武士の生き様があれば、小笠原長時はよかったのではないか、そう思う義清。
(「共に戦場に立つ御方ではない。まして敵は武田ぞ!」)
義清は長時の誘いに、
「恐れながら、此度の戦は村上義清の戦!守護殿はまだ傷も癒えぬようで、暫し、御休みになられるがよろしいかと存じます。」
丁重に断りをいれた。
「そうか、村上殿、武田と一戦交えてくれるか!では長時は高みの見物と致すわ。はっは。」
元気を取り戻し、上機嫌の長時。
小笠原長時はこの後、天分一七年(1548年) 塩尻峠の戦いにおいて、武田軍相手に大敗を喫する事になるのだが、この時の長時に義清は知る由も無かった。
(「やはりこの御方は思慮深さに欠ける、どうも好かん。」)
改めて義清はそう思い、
「守護殿、村上義清、城に戻りなすべき事ある故、これにて御免。」
小笠原館·林城を後にする。




