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「仕官の理由」

 「仕官の理由」


 義清と対面した山本勘助。 


 「山本勘助とやら、何故(なにゆえ)葛尾城(ここ)に参った?」


 尋ねる義清に勘助が口を開く。


 「(それがし)流浪(るろう)の身、武士を志して武者修行の旅に出ますれば、諸国を渡り歩き見聞(けんぶん)を広げて参りました。時には寺で仏門の修行に励み、ある時は戦場(いくさば)出会(でくわ)しその(さま)を見て肌で感じ、兵法を得ておりますれば恐れながら、仕官を求め参上致した次第に。」


 「それでは儂の問いに応えておらん、何故、ここに来たかと聞いておるのだ。」


 義清は再び尋ねた。


 「恐れながら某、武士を志すにあたり、名のある御方に仕える事を夢見ております。村上様と言えば、清和源氏の流れを汲む信濃村上氏を祖とされ、戦におきましては真っ向から挑みし御姿に相手を(ひる)ませる猛将、また負け戦となればいち早く、兵を損なわぬよう引かせ、負けを御認めになられる御方と存じております。これ程の御方に仕える喜は無いかと。」


 仕官への熱意を述べる勘助。


 「御主の志しはわかった。。然れど、儂のような国人(こくじん)でなく守護や国主がおろう。駿河(するが)の今川、相模(さがみ)の北条、そして今や村上(われら)の敵となった甲斐の武田。」


 義清が言い終えると、勘助はそれに応える。


 「恐れながら某、武田を憎んでおりまする故、村上様の元へ参った次第。某は駿河国富士郡の出。武者修行を終え、故郷に戻りますれば、駿河·今川義元(いまがわよしもと)様の元へ参りました。然れど今川様は某の醜き姿に驚愕(きょうがく)なされ、某を邪険(じゃけん)とし御認め下さらず、仕官を求め再び流浪の身に。」

 

 話は(さかのぼ)りー、天分五年(1536年)


 今川義元が家督を継承する際、今川家では家臣による争いが起きていた。


 父·今川氏親(いまがわうじちか)の死後、義元の兄が家督を継ぐも兄の急死を受け、家督の継承権を得る。


 義元が当主となる事に異を唱えた今川家の有力家臣·福島(くしま)氏、福島氏は自家の血を引く義元の異母兄·玄広恵探(げんこうえたん)を当主として掲げ反乱を起こす(花倉(はなぐら)の乱)。


 劣勢(れっせい)に陥っていた義元は、旧来の盟友(駿相同盟(すんそうどうめい))·相模の北条家に救援を求めた。


 北条家の支援に成功した義元は、花倉の乱を鎮圧、家督を継承する。


 翌、天分六年(1537年) 今川家当主となった義元は敵対していた甲斐の守護·武田信虎の娘を正室に迎え、武田家と同盟を結ぶ。(甲駿同盟(こうすんどうめい))


 武田家と今川家の甲駿同盟成立は、義元が自国の周囲を守り固めようとした、駿相同盟を反古し北条家に断りを入れなかったとして、家督相続時に助力した北条家当主·北条氏綱(ほうじょううじつな)を激怒させた。


 駿相同盟を破綻(はたん)とみなした北条氏綱は今川領に向け出陣、駿河国富士郡に侵攻、今川家と北条家が争う河東(かとう)の乱の始まりである。


 今川家では、依然(いぜん)、花倉の乱による内部対立を抱えたまま家臣の統制がとれておらず、義元と反目(はんもく)していた今川家臣達を引き込む氏綱。


 義元の今川軍は北条軍と反今川家臣達により挟み撃ちされ、窮地(きゅうち)に陥った。


 義元の窮地を知った甲斐·武田信虎、救援に向かうが北条軍の猛攻を受け進軍できず、ここで信虎は北条軍を引かせる為、非情な手段にでる。


 富士郡河東(実在するか不明の地域)の最前線で北条軍と戦っていた今川家臣·山本光幸(やまもとみつゆき)(貞久)に白羽の矢を立て、北条軍に寝返らせ、大将·北条氏綱の首を取るよう仕向けた。


 信虎はこの役目、義元自らが山本光幸(そなた)に頼むと申していたと偽りの書状を見せ、光幸を激励する。


 主君の忠義に厚い光幸は快諾し、北条の陣へ赴いた。


 無論、信虎は北条氏綱の首など取れるはずがないとわかりきって光幸を送り出す。


 今や北条軍は義元に反目した家臣が多くいる、当然、光幸の顔を知っている者もおり、光幸が義元(しゅくん)を裏切るはずがないと疑われよう、信虎の狙いは勢いずいた北条軍にわずかでも混乱を起こさせる事であった。


 その混乱は、大きければ大きい程都合がよい、要は信虎にとって光幸は捨て駒、万に一つ大将の首を取れれば大手柄であるが、落命の役目、それも反逆者(うらぎりもの)として。

 

 信虎の予想に反し、光幸は北条氏綱のいる本陣まで進んでいた。


 しかし運悪く、光幸の顔をよく知る反目した今川家臣に見つかり捕まってしまう。


 一矢報(いっしむく)いるが(ごと)く、本陣で暴れ回り、大将·北条氏綱に襲いかかる光幸。


 氏綱は一瞬怯んだが、態勢を立て直し、光幸に一太刀(ひとたち)を浴びせた。


 傷口から(あふ)れるばかりの流血が致命傷を物語る。


 周りにいた家臣が光幸に襲いかかり、山本光幸は必死の最後を迎えた。


 北条の本陣に混乱が起きたとの報せを受け、信虎率いる武田軍は突撃、北条軍を突き崩す。


 武田軍の優勢と見るや『勝って兜の緒を締めよ』の遺言で知られる名将·北条氏綱は違った。


 混乱を瞬時に治め、指示系統を回復、武田軍に猛反撃。


 結果、信虎率いる武田軍·義元の今川軍は敗走、北条氏綱の勝利に終わる。


 戦後、今川義元は一人の家臣を呼び出し、切腹を申しつけた。


 義元は信虎の(はかりごと)を知らず、山本光幸が北条方に寝返り謀反したとの報せが届いたからである。

 

 裏切りの汚名と共に切腹した家臣、山本貞幸(やまもとさだゆき)


 勘助が兄·山本光幸と父·山本貞幸の無念の死を知るのは、今川家仕官を断られ、再び流浪の身となって暫く甲斐国を訪れ、武田家重臣·板垣信方に出会った時である。


 その後、勘助は兄を(おとしい)れた武田信虎を憎み、父を切腹させた今川義元に怨みを晴らすべく桶狭間へ誘導、義元は織田信長に討たれる事になるのだがそれはまだ先の話。

 

 武田を憎む勘助は、対峙する村上義清に仕官を望む理由(わけ)を話した。


 「あいわかった!勘助、この義清の元で武田への怒り、存分に発揮致せ!」


 仕官を認める義清、しかし、この男が仕官など求めていない事を義清は見抜いていた。


 (「信虎殿追放から月日が流れ、憎しみを捨て武田に仕える事で己の進むべき道を見いだしたのであろう。あの燃えるような闘志をした目は武田への憎しみではない。野望に燃えた眼差し、然れど、片方の隠した目がそれを抑えておる。山本勘助、流石(さすが)、武田晴信の軍師よ!」)

 

 「有り難き御言葉。村上義清様(おやかたさま)の為、武田相手の戦、存分に御覧入れまする。」


 勘助は礼を述べた。

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