「越後の頭角」 其の壱
「越後の頭角」 其の壱
天文十七年 十二月
信濃進攻を一時取り止めとし、甲斐国内及び制圧下の信濃国·伊那·諏訪·佐久郡統制に目を向ける武田晴信。
北信濃に勢力を保持しつつ、失墜した信濃守護の復権に務めるべく奮闘する村上義清。
そしてもう一人、前者達に劣らぬ存在となる若者が頭角を現そうとしていた。
長尾景虎、後の上杉謙信である。
越後国ー
越後国の守護·上杉家に対し、守護代である長尾家が力つけ実権を握ろうとしていた。
世に言う、下剋上。
三家に分かれる長尾家は実権を握るべく守護の地位をかけて争う。
越後国·蒲原郡三条を所領する三条長尾家、古志郡を拠点地とした古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家。【 Wikipedia参照 】
三家より勢力を誇ったのが、三条長尾家。
三条長尾家より現れた長尾為景が大いに統率を発揮、主君を討つ下剋を成し実権を掌握するも古志·上田長尾家との争いが続き、越後は統一できずにいた····。
そんな越後に大きく存在を発揮した長尾為景の末男として、亨禄三年(1530年)、春日山城に生まれた武将。
幼名を虎千代、母は古志長尾家より長尾為景に嫁いだ御方(虎御前)。
虎千代には、兄姉がおり三男もしくは四男であったとされる。
武勇の遊戯を嗜む虎千代に、周囲の者や家臣達は驚嘆したと言う。
天文五年(1536年)、父·為景が隠居し家督を兄·晴景が継いだ際、虎千代は寺に入門した。
父に疎まれるが故の仏門への道。
これが後の虎千代の人生に強く影響を与える。
戦乱に明け暮れる地で、純粋な幼き心を持って仏の教えを学んだ事が、虎千代の心に影響を与えた。
仏門修業に励む一方、武術の鍛練並び駒を使っての兵の動かし方や戦の仕方を頭で想像するといった戦術面を学ぶ事も怠らず、戦の神“毘沙門天”を厚く信仰、自らを“毘沙門天”の生まれ変わりと信じる姿はやがて軍神と呼ばれる強さに繋がってゆく。
天文十一年(1542年) 父·為景が病没すると、越後の実権を取り戻すべく内乱が起きる。
家督を継いだ晴景は越後をまとめられず、守護·上杉定実が復権、上杉定実を支援する上田長尾家等が主流となって国政を支配、越後は混乱していた。
敵勢力が居城の春日山城に迫る中、父·為景の葬儀、虎千代は甲冑を身に纏い亡き父の柩を護送するなど緊迫する事態が続く。
翌、天文十二年(1543年) 混乱続く中で、十四歳となった虎千代は元服を果たす。
元服果たした虎千代、名を改め、長尾景虎とした。