「義清の生涯」 其の弐
「義清の生涯」 其の弐
武田・村上・諏訪の三家連合軍と信濃国小県を領する海野・真田・根津氏の滋野一族が一方は領土拡大に、一方はその領土死守の為に争った海野平合戦。
小県に攻め入った連合軍に海野棟綱ら滋野一族は必死に抵抗するが尾野山城が落城、海野棟綱の嫡男が討死するなどして連合軍に敗退する。
やがて滋野一族は総崩れとなり、海野棟綱・真田幸隆(幸綱)達は村上義清らに挟み撃ちにあい敗北、その後に関東菅領上杉氏を頼り、上野国へ亡命。(海野棟綱はこの戦いで戦死したとの説も有)
因縁の間柄となる村上義清と真田幸隆。
真田幸隆は日本一の兵と呼ばれた真田信繁(幸村)の祖父にあたり後の真田氏の礎を築いた人物で、故郷の小県真田郷をおわれた後故郷を取り戻すべく奮闘を重ね、敵であった武田家に仕えて調略を駆使、見事、故郷を奪還する。
海野平合戦に勝利した連合軍は滋野一族の滋野領の分割を行う。
海野氏に組してこの戦いに参戦、敗北し降伏した人物に「矢沢殿」という人物がおり、この人物は矢沢頼綱(綱頼)と考えられ、真田幸隆の弟にあたる。
真田家の真田郷と諏訪氏に属する矢沢家の矢沢郷は隣接する地域で両家は敵対関係にあり、頼綱が矢沢家に養子に出された事で関係は解消された。
頼綱は諏訪氏の斡旋を受け武田信虎に従った、村上義清に帰属したと記載がありましたが、信虎追放の後、諏訪領に攻め込み諏訪頼重を自害させ諏訪の姫を奪った武田晴信を憎み、武田と戦う為に村上義清に属したと考え、兄が武田方に仕えた事で敵対するも、やがて兄に従う道を選び、後の章で述べる砥石城攻略に繋がった人物として描きたいと思います。
天文十年(1541年) 六月
甲斐国でクーデターが起こる。
武田信虎が駿河国の今川義元に訪問する為に出立、その最中、嫡男武田晴信が陣をだし父親をそのまま駿河に追放、自身が甲斐の国主となる。
信虎は学問に優れた嫡男晴信より次男信繁を溺愛し家督を継がせよとしていた、晴信はそんな父を尊敬するも、弟を溺愛する姿に落胆し自分が追放される前に父を追放した。
信虎は甲斐を統一させたが、衰退した武田家を取り仕切り国を統一させるに力は必要となるも強引なやり方の力攻め、国内を力でまとめ繁栄より恐怖で縛りつけた姿に、家臣、領民達は不満を募らせる。
このままでは国は保てないと考えた晴信は自らが国主となるべく立ち上がり、重臣達を説得、弟信繁も兄の熱意を尊敬、父信虎の追放に賛同したと考えます。
しかし、晴信もいつしかそんな父と同じかそれ以上の力攻めを強行するようになり、信虎は晴信の秘めた恐怖を見抜き、弟信繁に家督を譲ろうとしていたのかもしれません。
やがて武田家重臣達の討死などの受難が晴信を改心させ、敗北から必ず学び、勝つ戦より負けぬ戦を狙い、国内の繁栄と武田軍の強化にあたり、戦国最強の騎馬隊率いる“武田信玄”は誕生したように思えます。
信虎追放の後、武田家の勢力は大きく後退し、小県郡を村上義清が佐久郡を隣接する上野国の関東菅領上杉憲政に奪われ支配される。
佐久郡に攻め入る際、先の戦いに敗北し関東菅領軍に属して戦ったとされる真田幸隆。
この時総大将として関東菅領軍を率いた長野業正は、主君(上杉憲政)の命により諏訪頼重と和睦、小県郡には攻め入らず、そのまま帰還した事に故郷奪還を願う幸隆は不満を抱き、上杉憲政を見限りやがて武田家に仕える要因の1つとされている。
武田、村上に断りを入れず、単独で上杉憲政と講和し領地の割譲を行った諏訪頼重を盟約違反と見なし、国主となった武田晴信が諏訪領に侵攻。
それに先駆け、諏訪頼重を本家とする諏訪氏には分家にあたる信濃国の国衆・高遠頼継がおり、諏訪領の獲得を狙っていた高遠頼継を晴信は調略により引き入れ、武田・高藤の連合軍で諏訪領に攻め入る。
天文十一年(1542年) 六月
諏訪頼重と武田・高遠連合軍による桑原城の戦いか勃発。
武田・高遠連合軍に対峙できるだけの兵力的余裕が無い諏訪頼重は居城の上原城を焼き捨て、支城である桑原城へと後退。
武田軍は甲斐国の統一にあたり幾多の戦闘を重ね、戦闘慣れした点で優位に立ち、防戦に徹する諏訪軍を追い込み、諏訪頼重を追い詰める。
武田側から和睦を持ちかけられ賛同し降伏する諏訪頼重。
降伏した頼重の身柄を甲府へ連行、和睦の条件に頼重の命は保障するとされていたとされるが、武田晴信は約束を反故にして頼重を切腹させる。
武田と盟約を結んだ諏訪氏、政略結婚として頼重には、正室として武田家から嫁いだ晴信の異母妹・禰々御料人がおり(頼重の切腹の後死去)、嫡男寅王がいたが武田家に翻弄され死別。(越後に逃れたなどの説有)
諏訪家は断絶、晴信は嫡男寅王に諏訪を継がせるつもりでいたが、頼重の娘(諏訪の姫)・諏訪御料人を側室として迎え入れ、子ができた事で寅王ではなくその子に諏訪を継がせようとする。
武田晴信と諏訪御料人との子こそ、信玄(晴信)無き後に家督を継承する事になり、諏訪と武田の悲しい運命を背負った武将・武田四郎勝頼(諏訪四郎勝頼)でした。