「義清の生涯」 其の壱
「義清の生涯」 其の壱
この章では“村上義清”という武将の生涯に触れます。
幾つかの情報、資料などから拝借しております事を御理解下さい。
文亀元年(1501年) 北信濃の武将、村上顕国(頼平)の子として葛尾城に生誕、幼名は武王丸。
武田晴信(信玄)が大永十七年(1521年)の生まれとされるので、義清は信玄より20歳上。
村上義清を輩出した信濃村上氏の祖は清和源氏頼清流の源頼清が信濃国を本拠とした一族であり、頼清の子孫が信濃国更級郡村上郷に住して村上性を名乗り、信濃村上氏が誕生したそうです。
清和源氏とは第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、その一つで清和天皇から分かれた氏族とされます。
清和源氏の流れを汲む信濃村上氏の“村上義清”は源氏としての誇り、正々堂々とした武士の生きざまを抱き、そういった真っ直ぐな所が甲斐の虎である“武田信玄”を二度負かす強さに表れていたように思えます。
永正12年(1515年) 元服の後、官位・右京権亮を称し、武王丸から義清と改める。
{ 私の私見で申し訳ありませんが、義清の“義”は斯波義達から“清”は清和源氏からもらい受け義清と名乗ったとこの物語では描かせて頂きます。}
永正13年(1516年) 従五位下に叙位、佐渡守に任官。
永正14年(1517年) 父の顕国より葛尾城を譲られ、その後、父の病没を受け家督を相続し、また家督相続時には信濃国の佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡を収め村上氏の最盛期の当主となる。
大永元年(1521年) 従四位下に昇叙し、左衛門佐に転任。
大永七年(1527年) 左衛門少将に転任。
天文五年(1536年) 正四位上に昇任。
信濃国は室町時代よりの守護を務める・小笠原氏による統制がとれておらず、戦国時代となってもその支配力は限定され、国人領主が各地を抑えており、当時の信濃村上氏が佐久郡に侵攻し、佐久郡の国人・大井氏を下し、佐久郡を支配。
一方、隣国の甲斐国において弱体した守護・武田家を取りまとめ家督をついだ武田信虎は甲斐国の国内を統一。
信虎の統一に反旗を示す甲斐の国衆は隣接する諏訪郡の諏訪頼満と協力して信虎と敵対。
武田信虎は永正十六年(1519年)に佐久郡の平賀城を攻め立て、これに対し佐久郡を抑えていた村上軍が援軍として出陣したことで信虎は後退、この戦が村上義清の初陣とされている。
大永二年(1522年) 武田軍は佐久郡の大井城を攻めるが、村上軍の援軍により敗北。
{余談ですが、甲斐国衆を服従させ甲斐国統一に尽力する武田信虎と駿河国守護の今川氏に属し対抗していた武田大井氏の大井信達。両者はやがて和睦、大井信達の娘(大井の方)を武田家に嫁がせます。武田信虎の側室となった大井の方(大井夫人)は武田晴信、信繁、信廉を産む事となります。}
天文四年(1535年) 武田信虎は敵対する諏訪頼満と同盟を結び和睦。さらに駿河国の今川氏などの勢力とも同盟を築いた事で武田軍を強力にし、翌天分五年に佐久郡の海ノ口城を攻め落とす事に成功。
天文八年(1539年) 村上義清は佐久郡に侵攻した武田家臣の飯富虎昌と対峙。
天文九年(1540年) 村上軍が甲斐に攻め込こむと武田家臣の板垣信方は再び佐久郡に侵攻し、両家は激しく衝突するも佐久郡は武田軍に奪われる形となる。
佐久郡をめぐり対峙している最中、小県郡や佐久郡は滋野一族が一定の勢力を保持(上野国の関東管領・山内上杉氏の後ろ楯があった)し、村上、武田双方に対峙する姿勢を保っていた為、これを制圧すべく、天分十年(1541年)、村上義清・武田信虎・諏訪頼重(諏訪頼満の孫)は同盟を結び、小県・佐久郡の掌握に乗り出し、武田軍は佐久郡へ、諏訪・村上軍は小県郡へ侵攻を開始する。
{この同盟には信虎も頼重も義清の勇猛を認めており、村上との余計な戦は避けたいと考えた、三家はそれぞれが獲得する領土に十分な合意がなされた為と考えます。}
天文十年(1541年) 五月
信濃国の佐久・小県郡をめぐり、武田・諏訪・村上の三家連合軍と小県郡を領する海野棟綱(うんのむねつな}・真田幸隆(幸綱)(真田信繁の祖父)・根津政直ら滋野一族が争う、“海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)”が勃発します。