「英傑の存在」 其の参
三河の国を治める岡崎城の城主・松平広忠の嫡子として、天文十一年(1542年)頃、竹千代は生をうけた。
少年時代から激動の人質生活を余儀なくされた。
母方であった水野氏が尾張国織田家に同盟した事で、父方の松平氏は今川家の従属を貫く為、幼くして母と生き別れとなる竹千代。
その後、今川義元に属する松平広忠は、従属の証である人質として竹千代を今川家に送る。
竹千代は少年の頃を人質という立場で過ごし、今川領の駿府に送られる途中、家臣の裏切り者により織田氏に渡された、或いは岡崎城を攻めた織田信秀への降伏の証として織田家に引き渡された。
少なくとも数え六歳の頃から二年、織田家での人質生活を過ごす。
その後、今川義元による人質交換で織田家より竹千代は今川家の人質となる。
人質という立場から織田信長と出会ったかは定かでは無いが、後の竹千代が信長と大きく関わる所を鑑みて数奇な運命の出会いがあったものと憶測し、物語は進む。
いずれにせよ、織田家や今川家での長い人質生活が竹千代に与えた影響は大きく、剣術、学力、忍耐力、統率力、世を渡り歩く術、当主としての器、人脈等を学び後の偉大な人物への成長へ繋がったのではないかと推察する。
また、今川家での人質生活の時、今川義元の軍師と呼ばれた太原雪斎が熱心に教育を施し、孫子の兵法等を学んだという。
これより数十数年の話になるが、竹千代は武田晴信(武田信玄)と三方ヶ原の戦いで相見える事になると夢にも思わない事である。
「御初に御座います。某は、武田家当主晴信様の名代として罷り越した者。名を山本勘助と申す。」
竹千代を前に、勘助は胡座から両拳を畳につけ頭を下げて挨拶を済ます。
まだその内に秘めるものは無いが、何処か惹きつけられる何かを勘助は直感で感じた。
「松平家当主広忠が嫡子、竹千代と申します。貴方殿の事、御話は伺っております。武田家に山本殿有りと。」
「此れは此れは、恐れ入ります。」
太原雪斎の教育が施されているのであろう。
竹千代の振る舞いに、感服する勘助。
竹千代が見た信長、孫子の話に花を咲かせ、和やかな対面は時が過ぎ終わりを告げる。
『 ( 織田弾正忠家より秀でた若者、松平家の嫡子、中々の器を秘めておる) 』
心に響く勘助。
竹千代が退出の後、勘助は太原雪斎と甲斐(武田)・相模(北条)・駿河(今川)の同盟について深々と話あった。
雪斎との対話を終えた後、勘助は足早に今川領を後にして晴信が待つ甲斐・躑躅ヶ崎館へ急ぐ。
「よう戻った!勘助、今川が誇る太原雪斎は如何であった!?」
躑躅ヶ崎館に戻るや、早速に晴信は勘助に問うた。
「御館様、先ずは詫びねばならぬ事が御座います。某、今川様の堪忍袋を刺激致した模様。誠に申し訳御座いませぬ。」
勘助は、今川館での義元への非礼を詫びた。
「はははっ。勘助、義元殿を怒らせたか!それも策と見ておる!晴信自ら出向き、義元殿に詫びを入れよう!義元殿は京への憧れが強き御方、格下の者に告げられ気に食わぬ様子であろう。父上(信虎)の隠居に礼も述べねばならん。義元殿の事は晴信に任せ、勘助の話を聞かせよ!」
「有り難き御言葉。面目次第も御座いませぬ。」
勘助を向かわせたのは、晴信の策。
今川義元が誇る、太原雪斎に接触し晴信も望む甲相駿の三国による同盟を確かめる為であった。
これには国主自らの合意が必要だが、其々の国の言わば外交官に当たる人物の働きが欠かせない。
そして、三国の合意を集う為に奔走する太原雪斎の存在が大きい。
事実、この二年後に三国同盟は結ばれる事になる。
「御館様、其が見聞き致した者が御座います。尾張の若武者と松平家の嫡子。いずれも侮れぬ強者と存じております。」
本題を告げた後、勘助は晴信に、尾張の若武者、と松平家の嫡子の話を聞かせた。
「尾張の若武者に、松平家の嫡子と、、、。」
聞き終えて晴信は、意味深に呟くと少し考えるそぶりを見せ天を見つめた。
この時、晴信が何を感じ抱いたのか、それを勘助に知る由は無い。
そして、
「勘助!我等が進むは、信濃一国!村上義清を下さねばならん!その先には越後!越後を超え北の海を目指す!」
晴信の硬い決意に
「御館様の思う所、御意のままに。」
勘助は礼儀を込めて応える。
その年、晴信の働きかけで今川義元との関係は了承。
翌年 天文二十二年(1553年)
今川義元の娘と武田晴信の嫡子による婚姻は、無事に取り行われた。