「英傑の存在」 其の弍
今川館を後にして、両家の軍師は場所を移す。
ー 岡崎城・二の丸 ー
連れられてきたは、太原雪斎の館でなく岡崎城。
本丸には義元の城代が構えており、義元の許可なく入る事はできない。
二の丸、ここにおられる人物に雪斎は勘助を会わせようとしていた。
その人物が登場するのを待つ間、雪斎と勘助は語らう。
「山本勘助殿、先ずは先程の非礼を詫びて頂かねば。我が主への非礼は本来死罪に他ならぬ。例え武田の名代として罷り越したと言え、許されませぬぞ。武田が背く意志あらば、今川は挙兵の覚悟と北条への救援要請を以て両国で甲斐を攻める手筈に。」
「御無礼は承知。誠に申し訳御座いませぬ。某に謀反の心得無し。さりとて、非礼を詫びた所で済むはずも無い事は承知。某が腹を切った所で何の得にもなりますまい。貴方様に越後の情勢を土産話しに致します。北条家への良き手土産となりましょう。」
「ふっ。武田が誇る軍師、中々の策士。わざと主を怒られせて雪斎との話し合いに持ち込んだのではありますいか。」
「滅相も御座いませぬ。」
互いに策士の顔色を損なわず、勘助は雪斎に信濃の動向から村上義清の存在、越後の情勢とそれを抑える頭角を現した長尾景虎の話を始める。
敵国の情報、これこそ最も求める代物と二人の軍師は認識していた。
暫くして、
今度は勘助が雪斎に問いかける。
「某も伺いたい事が御座います。尾張の織田弾正忠家の事で。若輩ながら、家督を継いだ若者がおられるとか。」
雪斎が話を始めた。
自国の東と北に同盟関係を築く事により脅威を無くし、西三河の松平氏を服属させた今川義元にとって、上洛を果たす事が目的であったが、同時に西への勢力拡大も狙う。
義元は、勢力拡大の為、三河を抑え、尾張国の制圧を企んでいた。
尾張国は室町時代に入り、守護を室町幕府管領斯波しば氏が務め統治、その下に斯波氏の家臣であった織田氏が守護代を務めていたが、応仁の乱後に守護代の織田氏が二つの勢力に分かれ力をつけ、斯波氏が隣国今川氏との長い争いに破れる、守護代の下剋上等により斯波氏の勢いが減退するなどして混乱していた。
尾張守護代の二つ分かれた織田氏【清洲織田氏・大和守家と岩倉織田氏・伊勢守家】、尾張守護・斯波氏の嫡流であった岩倉織田氏が当初優勢を誇るも、斯波氏の減退を受け徐々に力を失い、代わりに清洲織田氏の元に仕える三家老(清洲三奉行)【因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家】の一つ、織田弾正忠家が急速に台頭を果たし、(1527年)織田信秀が家督を継承した頃には、弾正忠家は主家の清洲織田氏を凌ぐ力をつける。
織田信秀の死後、織田弾正忠家の一族内部を含め、織田氏の内部抗争が再発するもこの一族内紛を鎮めた若者がいた。
彼は、主家である尾張守護代・清洲織田氏を討ち、もう一つの尾張守護代・岩倉織田氏を追放、さらに守護・斯波氏をも追放し、その他反抗する織田氏一族を鎮圧、尾張国内統治を成し遂げた人物、織田信長である。
駿河・遠江・三河の一部を領する今川義元、尾張を統治したばかりでまだ弱小勢力と見ていた織田信長を討ち、尾張を領するつもりであった。
話を聞き終えて、
『 ( 織田信長、、、。混乱した織田家の内乱を静める武将。某の見立て、武田晴信様や越後の若武者と通ずる所を感じる。尾張は弱小と言えど織田家は侮れぬ。美濃の後ろ盾も得ておれば今川様との戦は如何なものか。 ) 』
勘助は心の底でそう囁いた。
「御待たせ致し、誠に申し訳御座いませぬ。」
雪斎と勘助が話終えた頃、まだ年の頃十歳程の少年が姿を見せた。
「おお、呼び出してあい済まぬ。竹千代。」
竹千代と名乗る少年、まだその内に秘める壮大さは見えないが、その存在もまた後に偉大な人物として後世に語り継がれる。
勘助は、英傑の存在を前にした。