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第九話 暴走する獣

 耳がよく聴こえない。身体がふわふわとする。


 まるで水の中にいるような、変な感覚だった。


 丸三時間も大音響にさらされたせいで、聴覚が戻らず、骨や内臓まで、まだビリビリと震えている感じがした。


 音楽が残っている。


 狂乱のステージが終わり、ライブハウスに明かりがついて日常の世界が戻っても、身体の芯ではずっと宇宙メタルの余韻が続いていた。


 うずうずしている。


 もう一度、あの不思議なリズムにノッて、若者たちとおしくらまんじゅうをし、獣のように本能で暴れたかった。


 デャーモンはすごい。


 そんな尊敬の念すら、持ってしまった。


 そのデャーモンと今、二人っきりで、ステージ裏の控室にいる。


 デャーモンの命令で、人払いがされていた。


 ミュージシャンたちが、出番前に着替えやメイクをする部屋なのだろう。ロッカーや鏡が並んでいる。


 折り畳み式の長机の上には、菓子や飲みかけのペットボトルが乱雑に散らばっている。それを挟んで、互いにパイプ椅子に座り、修一とデャーモンは向かい合っていた。


 デャーモンは、再び元のサイズに戻っていた。信じがたいことだが、汗一つ掻いていない。顔面の緑色は、おそらく特殊なペイントだと思われるが、まるで塗りたてのペンキみたいに艶々としていた。


 同じく緑の光沢を放った全身タイツ姿のまま、脚を大きく開き、腕組みをし、瞑想するように目を閉じている。対する修一は、入れと言われて入り、坐れと言われて坐ったきり、声を奪われた人魚姫のようになにも話せないでいた。


 どう声をかけていいのかわからない。


 ライブ終わりのアーティストは、どういう精神状態にあるのだろう。下手なことを言ったら怒鳴られるのではないか、と思うと、緊張して口が利けないのだった。


 やがてデャーモンが薄目を開けて、


「ドウだった?」


 ステージそのままの、甲高い声で訊いた。


 むろん地声ではあるまい。本名はなんというか知らないが、デャーモンでいるあいだはこの声で話す、というマイルールを、どうやら貫いているらしい。


「良かったです」


 頭を下げて言ったとたん、驚いた。喉がすっかり潰れていて、かすれた声しか出なかったのだ。それほど修一は、デャーモンの歌に合わせて、全力でシャウトしていたのである。


「どこがヨかった?」


「はい。わたしたちの哀しみを、わかってくれている気がしました」


 思ったままの感想を述べると、


「ソウか」


 無表情だが、どこか満足げな様子でうなずいた。


「バカになるのもいいもんダロ?」


「そうですね。こういう音楽は、聴かずに敬遠していましたが、娘が夢中になるのもわかる気がしました。中には、音楽なんて、地球人をクズにするための宇宙人の陰謀だ、なんて珍説を唱える輩もおりますが」


「ム……宇宙人なんて、いるわけなかろう」


「ハハハ。もちろん冗談です」


「ところで、おまえの娘の早紀とヤラだが、おれのライブを体験した今でも、ファンをやめさせたいと思ってるカ?」


「…………」


 宇宙メタルを褒めはしたが、それとこれとは話がちがう。やはりまだ中二の娘に、夜の十時十一時まで出歩いてもらいたくはない。


 あんな、父親の言うことを無視するよそよそしい娘ではなく、かつてのような、パパパパと言って甘えてくる娘に戻ってもらいたかった。


 あれが本当の娘なら、そうなれるはず。赤の他人のデャーモンよりも、このおれを選んでくれるはずだ。


「はい。ライブに出かけるのは、禁止するつもりです」


「娘を愛してるんダナ」


 デャーモンはそう言うと、机から銀色の小さな容器を取って、ゴクゴクと飲んだ。あの容器の名称はなんといったろう。そうだ、スキットルだ。


「その愛するチュー学生の娘を、おまえはちゃんと、大事に扱ってるノカ?」


 デャーモンがゲップをした。柑橘系の香りが漂う。よく見ると、緑色の唇の端に、オレンジ色のつぶがくっついていた。


 おかしい。


 正面に坐る男を、じーっとにらんだ。


 ペイントで隠された素顔。宇宙人のマネのような変な裏声。


 小学生の身長。スキットル。つぶつぶオレンジ。


「探偵ってのは」


 かすれた声で、修一は言った。


「こんなバカな変装までするのか、蝶舌」


 しばらく見つめ合った。


 修一のヒゲが震える。すると、向かいの男の頭のアンテナも、小刻みに揺れた。


 やがてそいつは裏声のまま、


「おれ様はデャーモンだよ」


 オレンジの匂いをさせながら、そう言った。


 あくまで芝居を続ける気でいる。


「なぜだ」


 訊いたが答えない。


 修一はぞっとした。


 蝶舌は、なぜこんなことをしているのか。


 香織から、最近のおれが妻や娘に当たるようになったのを聞き、おれに説教しようとして、こんな手の込んだことを? にしても、やり方が異常すぎる。


 わざわざデャーモンに扮して、あの狂乱のライブをやってみせるとは。


 いや。


 確かに蝶舌は、学生時代にバンドを組んでギターをやっていた。しかしその程度で、ファンの目をごまかせるほど、完璧にコピーできるはずがない。


 とすると――


 入れ替えトリック。


 さっきステージに立っていたのが本物のデャーモンで、控室で待っていたのが蝶舌。そうだ。これはそういうトリックなのだ。


「なぜだ、蝶舌」


 もう一度訊いた。


「なぜこんな芝居をする。香織に頼まれたのか?」


「ちがう」


 首を振り、ゆっくりと、おかしなことを言った。


「ぼくを殺させるためさ」


 まだ裏声を崩さない。そこに狂気を感じる。


 蝶舌のやつ、どうやら狂っちまったらしい。


「修一。おまえはこのままでいくと、香織ちゃんや早紀ちゃんを喰い殺してしまう。そこでぼくは考えた。ぼくを殺させて、殺人罪で刑務所に行かせちゃえってね」


「頭がどうかしたのか、蝶舌」


 修一の喉は、カラカラだった。


「殺すとかなんとか、意味がわからん」


「わかってるはずだよ。鏡を見ろ。おまえはもうネズミさ。ぼくが香織ちゃんのことを好きだったの、修一も憶えてるよね」


「…………」


「おまえといたら香織ちゃんの身が危ない。ぼくはそれから香織ちゃんを救うために、おまえに殺されてやるのさ。わかったか、修一」


 わかるはずがない。マジキチめ。


「それが究極の、ピュアな愛ってやつなのさ」


「ほざけ、蝶舌」


 怒りの感情が、だんだん抑えがたくなってくる。


「おまえなんか、ただのチビじゃねえか。香織どころか、誰にも相手にされるもんか」


「相手にされなくたっていい。ただ、香織ちゃんのためなら、ぼくは死ねる」


 言いながら、のっそりと立ち上がった。


「さあ、ぼくを殺してよ」


「殺さないよ」


 修一も椅子から立ち、後ろに下がった。


「そんな気持ち悪いことしないし、刑務所に行くつもりもない」


「喉笛に喰らいつきな。そうしたいはずだよ」


「したくない」


 蝶舌が長机をまわってこようとする。その同じ距離だけ、逃げた。


「デャーモンのライブに来させたのはそのためさ。宇宙メタルには力がある。人を熱狂させて、暴れさせる力がね」


「おれは帰る。付き合ってられん」


「殺せええ!」


 突然蝶舌が、信じられないスピードで迫ってきた。


 肩をつかまれた。全身の毛が逆立つ。


「よく聴け、修一! 早紀ちゃんは、ぼくの子だあ!」


 なにを叫んでいるのか、頭に入ってこない。


「おまえと結婚する直前に、香織ちゃんとコンビニで再会したんだ。ぼくたちは、そこで手をつないだ。ああ、そうさ。つないだとも! そのときできたのが早紀ちゃんだ。その証拠に、ぼくの歯茎を見ろおおお!」


 ライブでシャウトするときのように、くわっと大口を開けた。


 あらわになった歯茎――見まちがえようもない。早紀そっくりだ。


 身体中の血が頭にのぼる。


 今、この瞬間、わかった。


 自分を苦しめてきたものの正体が。


 蝶舌だ。


 香織の心にいたのは、蝶舌だった。


 香織はおれを裏切っていた。


 小学校のときから、おれじゃなく、こいつのことが好きだったのだ。


 香織と蝶舌。


 こいつらは、二人して、おれをコケにした。


 早紀はおれの子じゃない。このクソ野郎の子だ。


 ずっと自分の娘と信じて、育ててきたのに。


 殺してやる。


 身体の芯に残っていた音楽が、再び大音量で鳴りだした。


 宇宙メタル。


 ドラム、ベース、ギターが、荒々しく襲いかかってくる。


 暴れてやる。


 なにもかも、ぶっ壊す。


「チュウウウウウウ!」


 目の前の、緑の男を殴った。


 渾身のストレート。まともに顔の中央に入る。


 鮮やかなKOパンチ。


 蝶舌は宙を飛び、背中から床に落ちた。


 修一は跳びかかった。


 緑色の喉が見える。


 咬みついた。


 前歯が深く食い込む。


 もうすぐだ。


 あともう少し力を込めたら、蝶舌は死ぬ。


 復讐は遂げられる。


 そう思ったとき、このバカバカしい変装を、ジャマに感じた。


 喉から口を離して、服の袖で蝶舌の顔をこすった。


 が、色は一つも落ちない。えらく強力なペイントだ。


 無性に腹が立った。アンテナを両手で持ち、ぐいぐい引っ張った。


 全然取れない。いったいどうやってつけてるんだ。


 緑のタイツに爪を立てた。一気に引き裂いてやろうと、タイツを握り――


 ん?


 なんだこれは。皮膚?


 ガン! と音がした。


 反射的に振り向く。


「警察だ。傷害の現行犯でタイホする!」


 ロッカーの扉があいていて、大きな男と、やけに小さい男が立っていた。


 その小さなほうは、今まさに組み敷いているはずの、蝶舌純亜だった。


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