表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/39

第六話 ネズミ人間


 チュ、チュ、チュ……


 嶋田修一は、リビングの絨緞に寝そべって、ぬるいビールをちびちび啜っていた。


 目はテレビ画面に向いている。が、内容はちっとも頭に入ってこない。その頭にあることは、ここ数か月間ただ一つ、


(もし早紀が、おれの子じゃなかったとしたら……)


 やるせない疑惑のことだけだった。


 怒りに毛が、ツンツンと逆立つ。昔はこうじゃなかった。産毛がこんなに硬いことはなかった。しかし、疑惑に身を焦がすようになってからは、なんだか身体が内側から変化して、ちがう自分になってしまったようだった。


 疑惑。怒り。不安。怖れ。


 そうしたマイナスの感情に呑み込まれると、ヒトは、こうまで変わってしまうものなのだろうか?


 よくわからない。とにかく自分の意志では、もうどうにもならなかった。


 毎朝、鏡を見てヒゲを剃るときに思う。いつからおれのヒゲは、左右に三本ずつ、横にピンと伸びるようになったのか。


 歯を磨くときもそうだ。前歯をやるときは、歯ブラシを縦にしてゴシゴシこするようになった。昔の前歯はこんなじゃなかった。


 朝食はチーズになった。それを両手で持って齧る。妻や子が見ていることに気づくと、サッとテーブルの下に隠れてコソコソ食べる。それでももし、妻が覗いてくるようなことがあったら、爪を立てて歯をむき出して威嚇した。


 チュウー……


 理性では、そんなことをしたくはなかった。でも身体は勝手にそうしてしまう。とても苦しい。理性ではなく、感情の奴隷になったおれは、もはや動物だ。背中を丸めて、後ろ肢でピョンピョン跳ねるとき、ああ元の自分に戻りたいと血を吐く思いで願うのだ。


(早紀はやっぱり自分の子だっていう、確実な証拠さえあれば……)


 それにはDNA検査をするしかない。だがそんなことを言いだせば、妻とにあいだに決定的な亀裂が入るだろう。それにもし、もしだ。


「あなたが父親の確率は……ジャーン! 0パーセント」


 ということになれば、おれは香織をどうするだろう。くわっと大口をあけて、喉笛を喰いちぎってしまいそうだ。


 修一は、空になった缶を前肢で転がし、今夜四缶目のビールを取りに冷蔵庫に立った。


 キッチンに香織がいた。


 美しい。


 結婚して十五年経っても、そう思う。


 修一は今でも、熱烈に香織のことが好きだった。


 小学校時代、クラスの男子全員が香織を好きになった。


 けれどもみんな、手が出なかった。素晴らしすぎて、自分なんかにはもったいないと、誰もが遠慮してしまったのだ。


 だが修一に遠慮はない。中学校に上がるとデートに誘い、公園で抱きついた。


 香織は運命論者だった。


 最初に抱きついた男性と結婚すると、幼いころから決めていたのだ。


 だから、修一を運命の人として受け入れた。好きかどうかは、香織自身にもよくわかっていなかった。


 その感情は修一にも伝わった。付き合ってはいても、香織は心から修一を好きなわけではない。たぶんほかに好きな男がいる。


「御子柴は、蝶舌のことが好きらしい」


 そんなことを言ったやつがいた。修一は耳を塞いだ。


 バカバカしい。あんなチビを好きなわけがない。が、もしかしてと思うと、気が狂いそうになり、結婚できる年齢になったらすぐに籍を入れ、悪い虫がつかないように家庭に閉じ込めた。


 修一は再び絨緞に寝転がり、ビールを啜った。


 チュ、チュ、チュ、チュ、チュ。


 香織と結婚はした。誰もが羨んだ。


 が、心はついに、修一のものにはならなかった。


 あいつの心の中には別の男がいる。


 そう感じつづけた十五年間だった。


 そして――


 一人娘の早紀の顔が、このごろちっとも、自分に似てないように思えるのだ。


 あれはあいつが十四歳になったばかりのときだ。帰宅時間が遅いのを注意したら、歯をむき出して怒った。そのときあらわになった歯茎に、目を疑った。


 全然おれとちがう!


 それまで、娘の歯茎をじっくり見たことはなかった。初めてその機会が訪れたとき、気づいてしまった。


 おれと香織のあいだから、あんな歯茎の子が産まれるはずはない。あれは他人の歯茎だ。そう思って観察すると、どこも自分に似ていない。嶋田修一のDNAの痕跡が、どこにも見当たらないのだ。


 結婚したときすでに、香織は早紀を身籠っていた。だとしたら、あいつはおれと婚約していながら、別の男と関係を持ったのか?


 香織はキッチンで、立ったままコーヒーを飲んでいる。それを見る自分の目が、猜疑心のために凶暴になり、怪しく赤く光るのが修一にもわかった。


 玄関で音がした。


 さっと壁の時計を見る。午後十時半。今夜もまた、早紀は門限を破った。


 チュッ!


 あの小娘め。父親の言うことを全然聞かない。実の娘じゃないからか? あいつはそれを知っていて、他人の言うことなんか聞けるかバーカと思ってるのか?


 今夜こそ、思い知らせてやる。


 修一が絨緞から立とうとすると、早紀が部活のダッシュ練習並みのスピードでリビングを抜けて、階段に向かった。


「待て!」


 そう叫んだつもりだった。しかしそれは、チューという、およそ父親らしからぬおかしな音声になった。


 酔っている。ここ最近、めっきり酒に弱くなった。


「おい待て! チュチュ親の言うことを聞け!」


「よしなさい!」


 香織が早紀を修一から逃がすように、階段の前に立った。


「酔っ払いがみっともない。大きな声出さないで」


「娘に規則を教えてる。何度門限を破った」


 早紀が二階に消えると、香織がリビングに来て、椅子に坐った。


「早紀が行ってるのはただのライブだって、何度も言ってるでしょ。唯一の趣味なんだから、そのくらい認めてあげなさい」


 修一がフンと鼻を鳴らすと、ヒゲがいっせいに震えた。


「宇宙メタルとかいう、イカれた音楽に夢中らしいな」


「デャーモンさんっていう人が好きなんだって。ヴォーカルの」


「好き? おれとどっちが好きなんだ」


「バカ言わないで」


「バカじゃない。そっちのほうが好きだから、門限を破るんだろ。チュー学生はチュチュ親の言うことを聞くべきだ!」


 香織が怯えた顔をした。気がつくと、興奮のあまり、前歯でビールのアルミ缶を喰い破っていた。


 冷蔵庫から、新しいビールを取ってきて飲んだ。


「香織」


「なによ」


「こいつは非行の始まりだ。今すぐ手を打たないと」


「どうしろって言うの?」


「ライブに行くのを禁止する。それを守らないようなら、もう親でも子でもない」


 言いながら、赤い目でねっとりと香織を見た。


「また極端なことを」


「デャーモンを選ぶかおれを選ぶかだ。いいな、本気だぞ。おまえはどっちの味方をする。おれか、デャーモンか?」


「それは話が全然――」


「おれと別の男を選ぶのか? えっ?」


 香織が椅子から立って後ずさる。修一が背中を丸め、テーブルに前肢をかけて、今にも飛びかかりそうな体勢になったせいだった。


 修一はビールを呷って、気を静めた。


「もし、どうしてもやめられないなら、脱洗脳士みたいなのに頼む。ほら、おかしな宗教から家族を取り返したりする、専門家がいるだろ」


「洗脳とはちがうでしょ」


「ある意味一緒だよ。あんなくだらない、宇宙メタルに夢中になるなんて」


「音楽ファンをやめさせるなんて、聞いたことないけど……」


 香織がふと黙ってから、あ、そうだと、急になにかを思いついたように手を打ち、


「探偵さんに頼んでみる?」


「探偵?」


「別れさせ屋みたいなことも、探偵はやるんだって。物は試しで頼んでみたら?」


「デャーモンと付き合ってるわけでもないのに、どうやって?」


「それは探偵さんに訊いて。とにかく、この問題を解決するには、娘にファンをやめさせるか、それともあなたも一緒にファンになってしまうか、二つに一つしかないのよ」


「冗談じゃない。誰があんなもの聴くか」


「じゃあ探偵に依頼するしかないわね。わたしたちの力じゃ、とてもファンをやめさせるなんてできないから」


「うむ。しかし、法外な料金を請求されないかな」


「知り合いでいるよ。安くしてくれると思う」


「探偵の知り合い?」


「うん。蝶舌純亜くん」


「え?」


 修一の毛が、ぞわっと逆立った。


「蝶舌って、あのチビか?」


「そうよ」


「なんで、あいつの職業を知ってる?」


「偶然コンビニで会ったの。で、今ぼく探偵やってるから、困ったことがあれば相談してねって名刺をくれて。事務所の電話番号は登録してあるから、かけてみる?」


「…………」


 妻の顔をじっと見た。香織は微笑んでいる。なぜかそれが、蝶舌に向かって微笑んでいるように見えてきて、身体中の血が熱くなった。


(まさか、あの噂、本当だったのか……)


 いやいやと首を振る。香織が言うように、偶然会っただけに決まってる。香織の浮気相手が、あんなガキ同然の蝶舌だったなんてこと、あるはずがない。


 でも、万が一……


 そうだ。蝶舌に会ってみよう。そしてどうにかして、あいつの歯茎を見てやるのだ。


 それがもし、早紀とそっくりだったら――


「そうだな。頼んでみるよ。久しぶりに、あいつに会いたくなった」


「友だちだったもんね」


「ああ」


 香織から番号を聞いて、修一は電話した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ