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第四話 甘い記憶


 御子柴香織ちゃんは、小学五年生のときに転校してきた。


 ほどなくして、クラスの男子全員が好きになった。


 もちろん、ぼくも、修一も。


 かわいかった。しかも抜群に性格がいい。


 かわいい×性格いい=最強。


 天使、いや聖母の降臨に、女子もみんなひれ伏した。最強にケチをつけるのは、全男子を敵にまわすも同然だったからね。


 ぼくはそのころ暗かった。


 女の子とは、どんな話をしたらいいかわからなかったし、男子のする話は、下品すぎて意味がわからず、全然ついていけなかった。


 ぼくは無口な読書少年になった。いろんな本を読んだけど、とくに探偵の出てくるのが好きだった。男にも女にも強くって、颯爽と行動する探偵の姿に夢中になった。


 ところが、である。


 遠足のときだ。


 香織ちゃんがぼくの横に来て、話しかけてくれたのである。


 ピュアな男子にとって、これがどんなことか、おわかりだろうか?


 まず、心臓が、跳ねあがる。


 脈拍が百八十を超える。ハッハッハッハという呼吸だ。


 手足はしびれ、やがて冷たくなる。足の裏の感覚がなくなるので、ふわふわと地面から浮いてる感じになる。宙にも浮く想いというのは、すなわちこれだ。


 羞ずかしさに口は閉じる。しかし内心はあふれる感謝でいっぱいである。


(ぼくなんかに話してくれてありがとう。でもぼく、ちっとも面白いことを言えないんだ。ごめんなさい、ああごめんなさい)


 そんなふうに思うものだから、感情が混乱して、涙と鼻水が勝手にだらだらと流れる。


「大丈夫、純亜くん?」


 そう言って、ハンカチで涙を拭かれたのであるよ。


 わかるか!


 香織ちゃんが使ったハンカチで、拭かれたのであるよ?


 そのとき吸い込んでしまった匂いの記憶は、一生消えない。


 小学五年生という時代をなんだと思うか。


 諸君はお忘れか?


 あのころ、好きになった音楽、スポーツ、映画、本。


 今でもそれが、いちばん好きではないだろうか?


 ぼくは人権宣言のように宣言する。ぼくらは、小学五年生のときのぼくらに、支配されることを認めるものである。


 その生ける証拠がぼくである。ぼくの身長と体重は、ジャストあの時代のままだ。


 ああ。


 香織ちゃんは、ぼくに話しかけることによって、その笑顔によって、永遠に消えないものを、ぼくという人間の深い部分に刻んでしまった。


 誰にも絶対に消せない。


 ぼくは現在、三十三である。年齢的には立派なおじさんだ。


 が、そのおじさんは、十一歳のときの甘い記憶に、日々慰められているのである。


 甘くて、ほろ苦い。


 まるでビターチョコレートだ。


 その苦さとは、


「御子柴」


 修一の声。突然後ろから走ってきて、ぼくと香織ちゃんのあいだに割り込んできた。


 ヤなやつである。


 今から思えば、たんにわがままなガキだ。なんでも自分のものにしたがる。クラスの聖母がぼくにしゃべっているのが気に食わず、強引に奪いにきた。


 でも香織ちゃんは、性格がものすごくいいので、そんな修一にも優しかった。


 ぼくは二人からそっと離れた。


 たったの五分間。人生で最高の思い出。永遠の記憶。


 告白なんかできやしない。聖母にそれは畏れ多い。


 中学に上がってクラスが変わった。その一学期のこと。


 香織ちゃんと修一が、付き合っているという噂が聞こえてきた。


「修一が、無理やり抱きついたんだって。香織ちゃんはピュアだから、付き合わないといけないと思ったらしいよ」


 噂だった。真相はわからない。


 ただ痛かった。ただただ悲しかった。


「女子たちは、香織ちゃんが好きなのは、純亜だったって言ってるけど」


 そんなわけはない。ぼくは耳を塞いだ。


 ぼくは突然、ギターをやりたくなった。


 激しい音楽に心を惹かれた。ひずんだでかい音が安らぎになった。


 香織ちゃんを見ないようにして、中学時代を過ごした。そして高校が別になると、実際に一度も見なくなった。


 ぼくはギターを続けたが、プロになるような腕もなく、夢もないまま高校を卒業した。


 およそ三年ぶりに彼女の姿を見かけたのは、コンビニでだった。


 目が合って、思わず「あ」と声が洩れた。


「純亜くん」


 向こうもぼくがわかって、笑顔になった。


 おわかりか。


 再び心臓をつかまれたのである。


 香織ちゃんは、ますますキレイになっていた。ほかの子とは断然ちがった。


「変わらないのね、ちっとも」


 コロコロ笑う声に、また涙が出そうになるのをこらえた。ぼくの顔も身体もあのころと変わらないのは、きっと香織ちゃんに、心臓を射貫かれたからだよと思いながら。


 あの遠足の続きを、したかった。


 ふと、二人とも、無言になった。


(ぼくのことを好きだったっていう噂、もしかして、本当だったんじゃ……)


 そんなことがよぎったり、それをすぐさま打ち消したりした。


「わたしね」


 やがて香織ちゃんが言った。


「修一くんと結婚するの。式は来年」


「…………」


 ぼんやりしていた。香織ちゃんの顔、どうしてちっとも嬉しそうじゃないんだろう?


「あ、ごめん。えーと、おめでとう」


 慌てて言うと、香織ちゃんが目を伏せた。


「修一くんの強引さに負けちゃった。純亜くん、ごめんね」


「……ごめん?」


 香織ちゃんが伏せた目をあげたとき、そこに涙が光っているように見えた。


「握手しよ」


 両手を差し出してきた。ぼくは反射的に、その手を握った。


(わ、こんなことしていいのかな。子どもができたりしないかな? どうしよどうしよー)


「さようなら、純亜くん」


 あれから十五年。目の前に、そのときできた子どもが坐っている――


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