第三十六話 村松・純亜
和樹は舌打ちした。
つい小宮と、おしゃべりなんぞをしてしまった。
狭い車内で並んで坐っているせいだ。だからおかしな気分になる。さっさとドライブを終わろう。
海賊船が見えてきた。
だだっ広い駐車スペースに車を駐める。ほかに車は一台もない。エンジン音が止まると、完璧な静寂が来た。
「人っ子一人いないな。公園をおれたちで独占だ。さあ降りるぞ」
小宮に言ってから、後ろを振り返る。
「どうする? おれたちは公園で遊んでるけど、多美はあっちに散歩にでも行くか」
海に突き出た堤防のほうを顎で示す。
多美がじっと和樹を見返す。
いよいよ子どもを殺す。その覚悟ができた、いい顔をしている。
多美はうなずいて、
「和さんが偵察して、よさそうだったら電話して。そしたら行くから」
「わかった」
キーを多美に渡して、車を降りた。
と、風を全身に感じた。
爽やかな八月の夜の風。
その潮っぽい匂いを吸い込んで、またしても子ども時代を想った。
あのころは、良かった。
不安も怖れも憎しみも、なんにもなかった。
小宮が助手席から降りてきた。
おやと思った。顔に怯えがない。
こいつもまた、覚悟の決まった顔をしている。
さあ殺してくださいと、言っているように見えた。
「本当だ。船だ」
妙に明るい声。和樹はつられてそっちのほうを見、
「おまえ、駆けっこは得意か?」
「ビリしかとったことありません」
「でもまだ三十そこそこだろ。五十近いおれよりは、いくらなんでも速いだろう」
「遅い自信はあります」
「逃げてもいいんだぞ」
「そしたら純はどうなります?」
「さあな。夜は暗くて危険だ。母親がちょっと目を離した隙に、どんな事故が起こるかわからない。もし海に落ちたら、救かるのはまず無理だろうな」
「村松さん、それは殺人です」
「だから?」
「警察に話します」
「ならおまえも事故に遭うよ、必ず」
「ぼくは死ぬまで殴ってもらっていいんです。だけど、純には触れないでください」
「おまえが頼む立場か。天にでも祈ってろ」
公園の入口に向かった。小宮がついてくる。
晴れた星空が広がっている。その下を、娘を殺した男と歩いている。
陸風が、服の隙間を抜けていく。
公園に足を踏み入れる。軟らかい砂の感触。
不意に、友華を初めてここに連れてきたときのことを思い出した。
強い風に吹かれた砂粒が顔を襲い、
『お砂パチパチ痛い!』
と叫んで、それ以来友華はここを、お砂パチパチの公園と呼ぶようになった。
『砂が目に入らないようにして、あのお船にのぼってごらん。高いところに行ったら、お砂は来ないよ』
『パパ、抱いてのぼって。恐い』
三歳の娘を左腕に抱き、右手で手すりを握って海賊船にのぼった。
あれは面白かった。
公園で遊ぶ楽しさを、三十過ぎて再発見した。
そうだ。あのとき思ったのだ。幸せとはすなわち、自分の子どもと公園で遊ぶことなのだと。
それなのに、愛人に走った。たまたま街で知り合った、海野多美に溺れた。
いったいどこで、なにをまちがったのだろう?
* * *
「純さん」
多美さんの声がして、スポーツバッグのチャックが開けられた。
「ふう」
ぼくはようやく大きく息をついた。ずっと折り曲げていた首の後ろが、ミシミシと鳴る。
「二人は出て行ったわ。ひとまず純は大丈夫よ」
「良かった」
バッグからそっと腕を抜き、脱皮をするように上半身を出した。
「二人を尾行して。たぶん、年上のほうが年下のほうを殴るけど、もしやりすぎて殺しそうになったら、うまく止めて」
「任務変更だね」
「できる?」
「そりゃまあ、探偵だから」
車を降りて歩く。
陸風が心地良い。
さて、どこに身を隠して二人の男に近づこうかと考えていると、子どものころによくやった、公園でのかくれんぼを思い出した。