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第十五話 不可解な死

 木村亜子は電話を切った。


 時計を見る。九時四十分。蝶舌さまに、最寄りの駅から今いる家までの道順をお伝え申し上げると、三十分以内で着けると言われた。


 三十分も!


 蝶舌さまがお着きになるまで、あの汚らわしい死体と、一つ屋根の下にいなければならないなんて。ああ、なんていやらしいことでございましょう!


 亜子は、リビングのソファに横たわったまま、でもあれは本当に現実のことだったのでしょうかと、そーっと首をまわして、絨緞に倒れている物体を見た。


 やっぱり……鮮やかに死んでいらっしゃる。お顔の色が、ゾンビ殿のようでございますもの。


 死体のお名前は赤沢卓根あかざわたくねさま。お歳は五十歳。芸能情報誌の編集長で、失礼にも二度見してしまったほど、お顔も身体も豚さんにそっくりでいらした。


 その豚さんが、突然襲ってきた。


 イノシシさんなら、人を襲うと聞いていたけれど、豚さんが襲うとはちっとも知らなかった。だけど……


 そこから先の記憶がない。


 目が醒めると、赤沢さまは死んでいた。大きなお腹から、血をもりもり出して。


 見ているものがなんなのか、最初はわからなかった。


 でも、鮮やかな血の色と、変テコなすっぱい匂いで、これは殺人なんでございますわという、怖ろしい現実が理解された。


 凶器は庖丁? ナイフ? でもそのようなものは、どこにも落ちていなかった。


 それにしても、こんなに血が出るほど切るなんて。


 よっぽど犯人さんは、豚さんを恨んでいたのでございますね。


 木村亜子は、ぶるぶるっと震えた。


 悪魔の所業、という言葉が、頭に浮かんでくる。


 こんなことをできるのは、憎っくき悪魔にちがいませんわ!


 そう考えたとたん、亜子は、まだ見ぬ父親のことを思い出した。


『あんたの父親は、悪魔よ』


 幼いころから、お母さまによく聞かされた。


 お母さまは、ご自分を捨てた殿方が、よっぽど憎かったのでございましょう。だから娘にも、その憎しみを植えつけようとした。


 でも亜子としては、顔も知らない父親を憎む気にはなれず、その代わりに、自分には半分悪魔の血が流れているのだわという、自己否定の感情を育てた。


 思春期になり、お母さまにはない美貌が現れても、少しも自慢に感じず、これはきっと悪魔の妖しい力によるものなんだわと思った。


 わたくしには、人間社会に居場所はないのですわ。わたくしは決して幸せにはなれない。わたくしは、誰とも恋愛しちゃいけない。


 亜子は強くそう信じた。


 だから亜子には、夢も希望もなかった。ただ一つ、お母さまを喜ばせるために、アイドルにならなければならないという、胸を締めつけるような強迫観念だけがあった。


 それが果たせなければ、死ぬしかない。だって、この月の砂漠のような世界のただ中で、お母さまに見放されてしまったら、一日だって生きていられませんもの!


 だけど、その目標は遠かった。自分はアイドルになれる素材ではなかった、という恐ろしい現実が迫ると、胃が食物を受けつけなくなった。その結果、みるみる痩せていくことで、かろうじて死を選ぶ一歩手前で踏みとどまった。


 痩せて、前よりも少しキレイになった。この努力を、きっとお母さまも喜んでくださる。もしかしたら、オーディションにも受かるかもしれない。


 もはや痩せることでしか、自信を得られなかった。もし体重計に乗ったとき、前日より一キロでも増えていようものなら、死んでしまおうと思った。


 そういう日々のうちに出会った探偵の蝶舌さまが、自分に同情して痩せていったとき、亜子は一人で泣いた。


 もう蝶舌さまと関わってはいけない。わたくしは決して幸せになれないし、人を幸せにもできない。不幸にするだけなんでございます。


『もうお電話するのはやめますわ』


 何度もそう言おうと思った。でも言えなかった。それを言ったら張り裂けて、ただでさえちっぽけな自分が、消えてなくなっちゃいそうに思った。


 蝶舌さまとつながっていたい。でもあのお方を不幸にするのは、もっとつらい。


 そう悩んでいたとき、お母さまの一言は、呪文のように効いた。


『女の武器を使うしかないわね』


 それだと思った。わたくしみたいなメス豚には、その手しかない。


 それでお母さまが喜んでくださるのならそうしよう。そしてそれを、蝶舌さまに伝えよう。蝶舌さまは、きっとわたくしを軽蔑して離れていくことでしょう。それでいいのですわ。心底嫌いになってくださったら、たぶんわたくしの苦しみも小さくなる。


 といっても、誰に武器を使いましょう?


 大物プロデューサー? そのような雲の上のお方に近づく方法なぞ、とてもありそうにない。


 お父さまはどうだろう。


 実のところ、芸能界との直接のつながりは、そこしかなかった。


『あんたの父親は、星王子ほしおうじという芸名の売れない歌手でね。けど、あんたが産まれる寸前で逃げやがった。あの悪魔』


 お父さまのことは、それ以上教えてくださらなかった。


 星王子という名前をネットで検索しても、大した情報はなかった。


 連絡先や住所を、お母さまに訊くことはできない。お父さまを憎んでいらっしゃるから。しかし、プロデューサーを紹介してほしいなどと、ずうずうしいことを頼めるのは、どう考えても身内しかいない。となると、お父さまの星王子を捜して、願いを話すしかなかった。


 どうやったらお父さまと連絡をとれるか。考えた末、亜子が思いついた方法は、芸能情報誌の編集部に電話することだった。


「わたくし、星王子の娘なんでございますが、父とは会ったことがないのです。一目だけでもお父さまにお会い申し上げてみたいので、協力してくださいませんでしょうか?」


 なにしろ売れない歌手のことだから、きっと相手にしてもらえないだろうと諦め半分でいたところ、意外にも編集長が食いついてくださった。


「きみ、なかなかいいキャラしてるね。芸能界に興味ない?」


 星王子のことはなにも言わずに、亜子に対して興味を示した。


「実は、アイドルになりたいのでございます」


「ホント? じゃあ、ぼくが力になれるかもしれない。一度こっちに遊びに来なさいよ」


 翌日、指定された時間に編集部のあるオフィスビルへ行くと、編集長の赤沢卓根さまが、たった一人で待っていらした。


 それにしても……


 これほど豚さんそっくりの人がいるなんて、なんだか服を着ていることが、不思議に感じられたほどでした。


「なんだなんだ、ものすごい美人じゃないか。ブヒッ! きみならすぐにでも、デビューできるぞ」


「ですが、オーディションには落ちまくりなんでございます」


「売り出し方しだいだよ。ぼくが大物にかけあってあげる」


「えっ、それは本当でございますか?」


「どうだろう、このあと食事でもしながら、じっくりその話を」


 豚さんとお食事? それはどうも、気が進まなかった。


「父の星王子とは、お会いできますでしょうか?」


「ああそれねえ、微妙な問題だからね。ぼくに任せてくれたら、うまくやってあげるよ」


「連絡先を、教えてはいただけないでしょうか?」


「ぼくに任せなさい」


 急に眉間にしわが寄って、真正面を向いた鼻の穴から、機関車のようにシューシューと息が洩れた。


「ぼくの言うことを聞いたら、お父さんにも会わせるし、大物にも紹介する。でも言うとおりにしないと、この世界に入るのは難しくなるよ。ぼくは芸能界の裏情報をたくさん持っていて、それだけに力もあるんだ。わかったね」


「……承知いたしました」


「よし、ぼくの家に行こう。ブヒヒッ」


 ビルを出て、赤沢さまの車に乗った。もしなにか怖いことがあったら、一目散に逃げましょうと考えて、必死で道を憶えた。


 赤沢さまのお住まいは、閑静な住宅街にある、二階建ての一軒家だった。ずっと独身で、一人でそこに住んでいるのだと、赤沢さまはブイブイ鼻を鳴らしながら言った。


 亜子は、覚悟を決めた。


 どうせ、女の武器を使うつもりだったのだ。その相手が大物プロデューサーではなく、豚さんであっても一緒だ。アイドルになれさえすれば、それでいいのでございます。


 でも、最初のお相手は、本当は蝶舌さまが良かったな。


 赤沢卓根さまは、スパゲッティを作って出してきた。


 亜子は無理して食べた。もちろん太るわけにはいかないので、食べ終わったら、すぐにトイレで吐いた。


 赤ワインも出された。アルコールには弱い体質だった。でも無理して飲んだ。


 頭がクラクラして、急に眠くなった。


 豚さんが近づいてきた。おやめください、と心の中で叫んでも、あまりに眠すぎて、口を開くことさえできなかった。


 ワインにおクスリを混ぜたのね、ひどいお方、と思ったのを最後に、意識が消えた。


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