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1.8. 夜語り

 むっとする悪臭の中、野伏せりは全身に血泥を浴びて、臙脂(えんじ)色のローブには色彩の濃淡で紋様が描かれている。その紋様はどろどろと形を変えながら、ローブの裾から赤黒く濁った滴を垂れるがままに垂らしていた。火炎を操っていた片手は既に重々しいローブの陰に隠れている。銀色に輝いていた刀身は血潮の色で光っている。斬ったものが魔物と知らぬ者であれば、彼の姿は呪いの彫像に見えただろう。



 男は目蓋を半ば伏せ、何頭かの魔狼の首筋に視線を送っていた。己の殺戮に何か思うところがあったのだろうか。いや、彼はかつては冒険者であったのだ、今更魔物の死に感傷など抱くはずがない。



 彼は重い足取りで死骸の山の、ある一つにまで歩み寄ると、魔狼の胴体を蹴り散らし、ひときわ巨大な一頭の首を()ねた。それを後方で怯える農夫達の足元へ放り投げると、



「これが群のボスだ」



 と吐き捨てるように言い、剣の柄をローブの内側で拭い、凄まじい勢いで血振りをした。鞘に納める一瞬、刀身は何事もなかったかのような美しい(きら)めきを発した。



 シェーンは恐る恐るとその頭を持ち上げた。ずしりと重いそれは魔狼らの血に染まり、あの不吉な赤い眼は既に白濁し、突き刺さる棘のような毛と鈍い感触の肌をして、首筋からは冷たい血を流していた。



 感謝よりも恐怖に満ちた眼差しで、



「野伏せりさん、助かった」



 とだけ口にした。



 野伏せりは小さく頷き、ローブは深い影を落として、その表情は読み取れなかった。



「それじゃあ、村に帰るべ」



 シェーンは弱々しく言った。腕から転げ落ちた魔狼の首で泥が()ねた。



 農夫達が立ち去ろうと重く足を引き摺り始めても、野伏せりは一人立ち止まっている。見送ろうというのだろう。体はこちらに向けているが。



「野伏せりさんも来なよ。村で宴を開こう」



 ロンがそう言ってローブ越しに腕を掴んだ。野伏せりは振りほどくでもないが、どうしたものか、まごまごしていたが、ロンに腕を引かれ、そのロンをシドニーが呼び、誘いを断る文句を見付けかねたと見えて遂には観念し、引かれるがままに付いて行った。



 後にする森は生臭く鉄臭く、黒い血肉を地に幹に枝にあらゆる面々にこびり付かせて、忌まわしい瘴気の渦を漂わせていた。農夫達は強いてそれを見ないように、決して後ろを振り向かなかった。



 その夜の野営は農夫達の魔物が一掃された興奮と安堵から大変な祝宴となった。まだ宵の口だというのに農夫達はすっかり出来上がっていた。



 村人の影法師が無数に踊り回り、歓声が上がった。焚火から(はじ)けた火の粉が宙に吸い込まれていった。肉の焼ける匂いが漂っている。零れた酒の匂いが満ち溢れている。農夫の誰かが胴間声で歌らしきものをがなり立て、誰かが木で岩を打ち音頭を取っている。



 賑やかな音に包まれてはいるが、どことなく寂しげな一隅があった。闇の中で一層暗い塊が鎮座していた。揺れる火影に照らされながら、それは微かにも動かない。騒がしい音に煽られながらも、それは僅かな音も立てない。



 革袋を二つ下げた人影が浮き浮きと歩んで来たかと思うと、それの前に屈み込んだ。



「おう、野伏せりさん、こんなところにいたのか」



 声を掛けられた男が顔を上げると、見下ろしていたのはロンだった。酒臭く、月明かりに髪は乱れて、口元は締まりなく(ゆる)んでいた。しゃっくりをして隣に座った。



「魔物を倒したのは野伏せりさんだ、主役がこんなとこに隠れてちゃいけねえ」



 そう言って革袋を一つ押し付けた。野伏せりは革袋の表面を撫で、それからゆっくりと口にした。ロンはその様子を眺めていたが、ふっと上体を反らして星空を見上げ、



「いい夜だよなあ」と言った。「昨日も同じ星空だったか。今日の方がよっぽどいいやね」



 風に乗って囃子(はやし)が聞こえた。



「何を考えていたんだい。こんなところで、一人でさ」



 野伏せりも顔を夜空に向けた。ローブで覆われていない彼の顔は垢で黒ずみ、髪は(よもぎ)のように絡まって水気がないのに脂で固まり、髭も同様に不潔に伸ばしていた。汗と脂と垢と血と、どれくらい体を洗っていないのだろう、ひどい悪臭がした。饐えて腐ったような体臭が蒸れて立ち昇り、鼻を刺し、鼻腔にこびり付く。ローブを身に纏っていない彼の姿は、山野に伏せる浮浪者、野伏せりそのものだった。



「鉄の時代を」



 野伏せりなどその日の食い物を探して森を荒らす獣も同然だ。そんな彼の口から神話的な用語が出てくるなど、元冒険者であるという予想がなかったら驚きしかなかっただろう。もしくは、卑しい身分の癖に小賢(こざか)しい、しゃらくさいと一層の嫌悪を増さしめるか。



「鉄の時代、か」ロンは酒で唇を濡らした。「魔王がこの世を支配する前、魔族が生まれるよりも前の時代か」



「人間の時代だ」



「魔物もいなかったんだろう。動物は動物のまま死んでいった。植物は植物のまま枯れていった。魔物になんかなることもなく」



「ああ」



「魔法もなかったんだろ。その時代には魔素が存在していなかったそうだから」



「そうだな。……だが、そんなことよりも、鉄の時代は人間のための時代だった。人間が、人間の為の社会を作っていた」



「神話の時代か」



「魔王が世界を支配していた頃、俺達は奴を倒そうと旅をしていた。魔王の支配を打ち砕き、この鉛の時代を打ち破って鉄の時代を蘇らせようとしていたんだ。魔王さえいなくなれば、鉄の時代が返って来ると信じていた。再び人間の世界になると信じていた」



「しかし魔物はいなくならなかった」



 ロンのぽつりとした呟きに野伏せりはカッとなり、



「そうではない!」鋭く光る瞳で宙を()め付け、「魔物など、そんなもの、どうとでも死ね! 人間だ、人だ、人間の問題だ! 魔王が死んでも、魔族が滅びても、この鉛の時代の人間は、人間の世を作らなかった! 鉄の時代など、蘇りなどしなかったのだ。俺達は人の世を取り戻す為に魔族どもと戦って来たというのに、命を張って人生を捨てて旅をしてきたというのに、社会は、鉄の時代になどならなかった。人だ、全ては、人間の問題だ」



「つまりは……」



 ロンはこの野伏せりを理解したかった。あの魔王の時代に旅をしていた冒険者でもある、魔狼を退治した実力もある、村の恩人でもある。彼のことが知りたかった。だが、ロンには彼が何に怒っているのか分からなかった。



 続く言葉を待った。しかし野伏せりはそれ以上喋らなかった。黙り込み、厳しい目付きで革袋を傾けていた。



「ロン」



 呼び掛けに面を上げるとシドニーが見下ろしていた。



「何だよ、こんな端っこで。酔っ払ったのか?」



「いや、ああ、野伏せりさんと話をしてたんだ」



「ふうん」と正面にしゃがみ込み、「何の話だ?」



 ロンは眉根をちょっと寄せ、



「鉄の時代、の話か」



「鉄の時代? 何だ、そりゃ」



 シドニーの言葉にロンは恥ずかしそうにしながら野伏せりに向かって、



「この村には学校がないから……」



 としどろもどろに言い訳のようなものをした。野伏せりは嗤うこともなければ怒ることもなかった。眉一つ動かさず、静かに酒を飲み込んだ。そして少年に言った。



「小僧、シドニーといったか、聞いておけ。損はないはずだ」



 その時、野伏せりが何を考えていたのかは、俯きがちな表情からは相も変わらず伺えなかった。



「この世界には、初めに天地開闢(かいびゃく)の『黄金の時代』というものがあった。神々がこの世を住処としていた時代だ。人と神は共にあり、絶対の幸福と至上の繁栄が神と等しく人にも与えられていた。おそらくは、その時代が永遠に続くのが人間にとって一番良いことだったのだろう。揺り籠で笑う乳飲み子のようにな。何の不安も脅威もなく、完全な平和の中に守られていた。しかしその時代は過ぎ去ってしまった。



「次に、神々はこの世に住んでこそいないが、しばしばこの世界に姿を現していた、『白銀の時代』というものが来た。前の時代ほど神は人や世界と近しくはなかったが、共に語り合う良き隣人であったのだ。しかしそれも過ぎ去った。



「今度は、神々はこの世に居らず、顕現(けんげん)もしないが、人々の祈りや行いによって影響が現れる、人々の祈りが聞き届けられたり、善い行いには善い結果が、罪には罰が下されたりしていた時代、『青銅の時代』が来た。



「しかしそれも過ぎ去って、人と神が完全に切り離された時代である『黒鉄の時代』が来た。このように時代が下るにつれて神は人から遠ざかっていった。



「『鉄の時代』では既に、人が祈ろうが罪を犯そうが、神は人に何の報いも与えなくなり、人と神には何の関係もなくなってしまったのだ。この時代になってしまえば、神などいない、そう言ったって間違いなどあるまい。



「それでも、この『鉄の時代』の人々は自分達の世界を創り上げていった。自分達の手で、だ。たとえ神がいなくとも、だ。人間はたとえ神がいなくとも、それに頼らなかったとしても、自分達で世界を作ることが出来たのだ。人間は、自分達の力で幸福と繁栄を実現出来る……! 素晴らしい時代だとは思わないか? 人間の時代だ。美しい時代ではないか」



 野伏せりの語り口には熱があった。少し酔っているのではないか、ロンは思ったが、彼がここまで饒舌(じょうぜつ)になるなど、昨日今日でなかったことだ、黙って聞いていた。



「その時代も、いつかは終わって、我々のこの『灰鉛の時代』になってしまったがな。魔物が生まれ、魔族がこの世を支配した。そして魔王が死んだくらいでは時代は変わらないのだろう。今はこの『鉛の時代』だ」



 野伏せりは寂しそうに笑い、革袋に口を付けた。ゆっくりと傾け、喉を潤してから、再び唇を開いた。



「『鉄の時代』、もしくは『黒鉄の時代』。それは人間達が自ら作り上げた文明を謳歌(おうか)していた正に人間の時代だった。神々はこの世に姿を現さず、影響を与えもしなくなったが、人間自身が人間のための社会を作り上げ、文化を楽しんでいた。技術もまた、この『鉛の時代』からすれば信じられないものが数多(あまた)にあった。



(いわ)く、馬や牛、その他の動物や人の力を借りずに、自らのみで動く車があったという。しかもそれは全体が鋼鉄で覆われ、内部機構も鋼鉄で出来ていたという。しかもそのようにして出来ているのにも関わらず、早馬よりも速かったそうだ。



「曰く、室内から一歩も出ずして世界中の情報を文字や音や画像の形にして得られ、地球の裏側の人間とも会話することが出来、文書のやり取りをし、また複雑な数式を一瞬にして解く、片手に収まる程度の大きさの、高度な機械があったという。



「曰く、何とも驚くべきことだが、乗り物の中には空中を飛行する機械があり、それに乗って高山や大洋を渡れたのだとか。更にそれは、たったの一日で世界を一周することも可能であったとか。



「曰く、何でも都会には、天を(さす)る楼閣が建築されていたという。それもただ一つではない、幾つもだ。一つの都市に幾つものそうしたものが(そび)えており、しかも、そうした都市は世界中の至る所にあったという。ただの一本でも驚くべきことなのに。天を摩る、天を摩るのだ、神の御許(みもと)に接するなど、それは殆ど神の御業(みわざ)、神の技術なのではないか。



「そしてまた曰く、遂には人類の技術は、この月下(げっか)世界から抜け出して、星界(せいかい)にまで達したという。星界、それは即ち神々の宮殿だ。人は神々の領域にまで至ることが出来たと言うのか。



「もっとも、これに関しては信じていないがな。幾ら『鉄の時代』の人間であっても神の宮殿に足を踏み入れるなど不可能だろう。おそらくは、『鉄の時代』を崇拝する誰かが、想像力の翼を広げて空想の世界を飛び回り、最も偉大であると考えた事柄を吹聴(ふいちょう)したのに違いない。



「……しかし、そんな彼の気持も分かる。何せ人間の時代だったのだ、その技術が人を神の類縁(るいえん)にまで押し上げようと、不都合などありはしない。そうだろう?」



 野伏せりの満足気な語りをシドニーはどの程度聞いていたのか、いなかったのか、唇を尖らせて、



「ふうん」と言った。「そんな時代があったなら、素晴らしいね」



 その答えを聞いてすっと気の抜けたような面持になり、



「ああ、あったのだ。素晴らしい時代が。かつては」



 そう(ひと)()ちた。野伏せりは遠い目付きで星空を見上げた。そしてそれ以上は喋らなかった。彼の視線の先には満ち満ちた月があった。その瞳には何が映っていたのだろうか。地と交わらぬ天であったか。神々の宮殿に遊ぶ「鉄の時代」の人間か。


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