1.5. 野伏せり ②
「野伏せりさんよう、今日はこの辺で休むべ」
樹冠から覗く大空は朱鷺色に澄んでいたが、森の中は既に闇の色に沈んでいた。静かに空気を揺らす風が墨のように流れ、物憂げな渦を巻いた。乱雑に生え茂る木々が切れてちょっとした広場になっていたそこに農夫らは各々腰を下ろし、足元も覚束ない森の中を丸一日歩き続けた疲労を地面に落としていった。
野伏せりはローブの陰から彼らを見回すと、仕方がないといった様子で自分の頭陀袋を下ろして座った。頭陀袋もまた彼のローブと同様に汚れ、擦り切れ、葉切れや泥が付いていた。彼らが会った場所から程遠からぬところに投げ捨てていたのを拾い、持って来ていたのだった。一本の大樹を背にして膝を抱え、項垂れている。
遠く、鳥の声がした。
空にも夜の色合が滲み始めた頃、農夫達は誰に言われるでもなく枯れ枝を集め出し、焚き火を作った。赤々とした火は力強く周囲の闇を遠ざけていたが、どことなく心細さも感じられるものだった。そして、この野営地の広場こそ照らしていたが、森は漆黒の幕が張られたように一筋の光をも受け入れず、静まり返り、何が潜んでいるとも知れなかった。
肉の焼ける匂いが広場一杯に漂った。農夫らが村から持って来た干し肉を焼いているのだろう。
農夫達は火を囲み、輪になって食事にありついていた。酒を飲んでいる者もあった。中には酩酊して気分よくなっている者もいた。
野伏せりはそこから一人離れ、物も食べずに星空を見上げていた。天空に鏤められた星々は揺らぎもせずに輝いていた。この地上に起ることになど関知せぬともいうように。ただ光が光としてのみ独立して存在していた。農夫達の村が魔物に襲われようと、農夫達がそれを狩ろうと、逆に被害を出していようと、一時の安らぎの間、笑い合い騒ぎ合っていようとも。それを空は目の端にも入れはいない。
――地と空、そこには決して交わらない断絶が在る。
まるで現在と過去のように。
野伏せりはぽつりと呟いた。
「鉄の時代には」
闇夜に思索を遊ばせる野伏せりの隣に、ロンが腰を下ろした。
「野伏せりさん、食べなよ」
肉の塊を差し出した。野伏せりはそろそろと受け取った。ずしりとした重み。煤の匂いがした。
「昼間はありがとう。おかげで楽になった」
ロンは裸の上半身に包帯を巻いていた。にっと笑い、それからローブの下から野伏せりの顔を覗き込もうとする。野伏せりは視線を返すでもなく、逸らすでもなく、掌の肉塊を見下ろしていた。
「野伏せりさんさ、魔法が使えるんだろ。それから、あの剣の腕。どこで覚えたんだ?」
じっとして答えない。
「失礼だけど、お幾つなんだ?」
ロンは目を輝かせて聞いていた。憧れているように。少年のように。何かを期待しているかのように。
野伏せりは肉の端をちぎり、一口食べた。むせた。
「すまない。ちゃんとした食べ物は、久し振りだ」
ロンは慌てて革袋を手渡した。たぷたぷと音がするそれに口を付けて野伏せりはゆっくりと中身を飲んだ。
「ああ! 美味い! エチルか、これは。メチルでない酒など、どれくらい振りだろう」
「濁酒だがね」
ロンは照れたように笑い、嬉しそうにした。
「だけど、メチルを飲んでいたってことは、街に住んでいたのかい?」
「……ああ」
野伏せりは革袋を揺らし、中身の揺れる音を楽し気に聞いていた。頬が緩んでいた。農夫達と出会って以来、初めて見せる表情だった。ロンから見えるのは口元だけではあったが。
「良かったら全部飲んでくれよ! もっと持ってくるぜ」
「ありがとう。これだけ貰えれば充分だ。これだけで。ありがとう」
野伏せりは繰り返し、革袋の表面を撫でた。ロンはその様子をしばし眺めていたが、ふとしてまた、
「もしかして、野伏せりさんは、魔物退治をしていたのか?」
それを聞くと口元からはふっと笑みが消えた。微かな緊張が走った。だが野伏せりはついに諦めたようになり、
「昔、旅をしていた」
とだけ答えた。ロンは目を見開いて、
「やっぱり! そうか!」と、喜色を満面に浮かべ、「魔王のいた時代だろう? 冒険者だったんだ! それであんなに。なあ、何て旅団にいたんだ? どの辺りを旅してたんだ? 魔族を倒したことは? 有名な冒険者には会ったかい? アガメムノンとか、アイアスとかさ! さっきの剣は名のあるものかい? 強かったんだろう? 武具はどうした? 見たとこ脛当だって着けちゃいねえ。どこかに置いてあるのか? 家? 住んでる場所は? 何で野伏せりなんかしてるんだ」
男は押し黙り、毛筋一本も動かさなかった。今では革袋も揺らしていない。しんとした森の静寂が耳を突き、草いきれが粘り付く。ロンは動揺して、
「すまない、つい興奮しちまった」と。「野伏せりさん、あんたは冒険していたんだろう、あの魔王の時代に。十五年前、魔王は倒された。勇者アガメムノンの手によってさ。その頃、俺はまだ十歳にもなっていなかったんだ。そりゃ嬉しかったさ。親父もお袋も魔物に殺されたし、親戚に引き取られてからだって、安心して眠れた夜はない。村は荒らされて、今の村だって、魔王が死ぬのが後三年遅ければ放棄しなけりゃいけなかっただろうさ。だけど、あんたらが魔族相手に戦ってくれて、お蔭で平和な世の中になった。感謝してるよ。あんたがどんな活躍をしたかは知らないけどさ。あんたらがいなければ、今の世の中はなかったんだ。そんな英雄に会えるだなんて、思ってもみなかった。そんな英雄が、何でこんなところで野伏せりなんかしてるんだ」
男はゆっくりと重い口を開いた。
「英雄、か。何故、野伏せりなんか、してるか、だと」
ロンはギリギリという歯軋りの音が聞こえた気がした。男の息は荒くなり、唸り声さえ聞こえてきた。ぐっと喉を絞る音が断続的に聞こえてきた。男は自制しようと必死になっているようだった。長い長い息を吐き、
「ああ、明日は早いだろう。もう、寝よう」
革袋を逆さまにして中身を一息に飲み込み、ロンに突き返した。ロンはそれを受け取り、慌てふためきながらも、立ち去らざるを得なかった。気を悪くさせてしまった。それははっきりと分かったが、彼の気迫に押されて仲間達の元へと帰らなければならなかった。
男は虚しそうな目で星空を見上げた。落ち着いてくるに従って、ロンに話し掛けられる前に巡らせていた思索に戻っていった。そして呟く。
「鉄の時代には」
鉄の時代――遥か遠い過去の時代に思いを馳せるのは、ある意味、彼にとって現実逃避でもあったかも知れない。