1.4. 野伏せり ①
火の粉を散らしていた炎も次第に衰えていった。真黒く焦げた土と、そこから垂直に真上の枝葉は燃え尽きて、日射が白く降り注いできていたが、延焼はなく、木々の炎にはぜる音が消え去ると、魔物が現れる前の静寂が戻って来た。
炎の跡にはアルミラージの影はなかった。消し炭すらも残っていなかった。そこに在るのはそれらが燃え始める前に殺された幾つかの死体だけだった。農夫達は身体のあちこちから血を流していた。一人は外れた肩を押さえて苦悶の声を漏らし、太腿を抉り取られた一人は糸が切れたように倒れ込んだ。
一体何が起こったのか。農夫達は突然の炎によって現れた葉叢の切れ目の向こう側を透かし見ていた。そして、
「あ」
と最初に気付いたのはジェイデンである。彼が力なく指差した先には、倒れ掛かった朽木が隣に凭れるように見えていたのだが、一つの人影がそこにはあった。
影はふらりと揺れたかに見えると、奥へ退いて行くようだ。
「待ってくだされ」
シェーンは呼び掛けた。
「エリヤ、あの方をここへ」
エリヤは駆け出し、影に追い付くと何かを話し掛けていた。二言、三言、会話をしている様子が見えた。そして、エリヤは影を連れて戻って来た。
エリヤは仲間達の前にその人物を促した。小汚い臙脂色のローブを頭からすっぽりと被ったその男は俯いて、どこか居心地悪そうにしていた。口元から伸びる、絡み合い、所々が跳ね上がり、手入れされていないことが一目で分かる、脂染みて汚らしい髭で男と分かる。大柄な体躯を包むローブは泥に塗れてボロボロで、肩の辺りは当て布で繕っているが、肘の辺りなどは見るからに薄くなり、裾はばらばらと解れてもいた。
「野伏せりか」と、シェーンは言った。「この森にも棲んでいるとは知らなんだ」
瞬きほどの短い間ではあったが、軽蔑の光が目蓋の隙間から漏れてしまうのを止めることが出来なかった。
「のう、野伏せりさん、先程の炎は野伏せりさんの魔法だべな。助けて下さって、いや、ほんに、ありがとう」
男はもじもじとして頷くと、踵を返そうとした。
「いや、待ってくだされ。野伏せりさんは、この森に住んでいらしてか」
彼は少し考えていたようであったが、首を横に振った。
「森には、さっきも見たように、魔物が出るぞ」
臙脂のローブの陰に表情を隠して相槌も打たない。
「ご存じか」
ごろごろと地の底から響くような陰々とした声で野伏せりは答えた。
「入って、知った」
「出て行こうとは……、いや、それでもここに住むつもりか」
野伏せりは、どのような感情からであったのか、長い溜息を吐いてから、
「通りすがりだ。ただの」
と呟いた。それは誰かに聞かせるような声ではなく、自分の耳に聞こえれば充分とでもいうような、ぼそぼそしたものだった。
「通りすがり、か。まあ、魔物の出る森に住んでいるとは思われねえが」
シェーンは顎に手を当てて眉を顰め、
「いや、あれだけの魔法を使えるなら、この森にだって住めるわなあ」
ローブの陰で、男の目が光った。髭が揺れ、口元を引き締めたのが分かった。
「何が言いたい」
シェーンははっとして、
「いや、すまね、すまねえ。野伏せりさんよ、どうか頼む。俺らは魔物を退治しに来たんだ。どうか助けてはくれねえか」
どことなく高圧的であった様子は消え、見るからに哀れな老人の風になった。
「野伏せりさんなら、いいけどよう、俺らじゃ魔物に太刀打ち出来ねえ、だから退治したいんだ。どうか助けてくれねえか」
男は俯いたままで顔色は伺えない。迷っているのだろうか。
体を動かせるのを忘れてしまったかのようだったのが、急にするするとローブの腰紐をゆるめ始めた。
何だろうか、と農夫達が思う間に、腰元から突風のように銀光が吹き出し、男の頭上を越えて後方へ半円を描いて流れて行った。
男の後ろの森の緑が真赤に染まる。――いや、男はこちらに背を向けていた。男は腰を落として、その手にはよく磨かれた剣が握られていた。その切っ先から赤い滴がぽたりぽたりと落ちている。ローブの裾が、ふわりと落ちた。
男の目の前には、縦に真二つに斬り裂かれた山猫が、おそらくは魔物化したものだろう、死んでいた。
男はさっと血振りすると、剣を腰元の鞘に納め、またのろのろと腰紐を結び始めた。
唖然とする農夫達の中で、胸を押さえたロンが、
「野伏せりさん、どうか、頼む」
そう言って血の塊を吐いた。
げえげえと血を吐き続けるロンを見詰めて、男は、
「分かった」と呟いた。
口々に感謝を述べている農夫達を背に、男はシェーンに向かい、
「どうする。今日は。もう少し進むか」
「いや、まずは手当てだ」
男はロンの側に近寄ると胸元に手をやって、
「簡単なものしか出来ないが」
と、力を込めた。するとロンは喉を満たしていた血が吐き出す毎に減っていくのを感じ、呼吸も碌に出来なかったのが、自然と喉に空気が通るようになっていった。そして気が付けば胸の痛みも軽くなっている。
男は首を振り、
「俺が出来るのはこの程度だ。完治はしていない」と。
「治癒の魔法まで」
ロンは生まれて初めて受けた治癒術に感動した。こうしたものがあるとは話には聞いていたが、自分のような普通の人間が経験出来るなど想像すらしていなかった。確かに男の言った通り、まだ痛みは残っている。だが、受ける前と比べたらどうだろう。それに比べれば無傷のようなものだ! ロンが礼を述べようとすると男は既に別の農夫の所へ行っており、若干の寂しさを感じた。
男は農夫達の応急処置を済ませ、そして一行は再び森の深部へ進んで行った。