1.1. 狩りをする農夫達 ①
この森に足を踏み入れてまだ半日と経っていない。それでも周囲は蔦を絡める木々が視界を遮り、風に揺らぐ木漏れ日が足下の草々の上で踊っていた。冬になれば近村の農夫が狩りに踏み入ることもある。しかし、盛夏、このような時期にわざわざ灌木を掻き分けて森の奥深くまで侵入していくなど、彼らにしても初めてだった。
年長の一人が仲間達に向かって言った。
「一度休むべや。まだ遠いはずだが、いつ出るとも分からねえ。疲れていたら苦労だ」
苔生した岩に腰を下ろし、空を見上げた。束ねられた日光が面を打ち、頬の皺、硬くなった唇、まばらな髭、色褪せた髪、苦悩の年月を刻んだ額を浮かび上がらせた。過ぎ去った年月が奥底に沈殿していても、その表情は穏やかで、朗らかな陽気を思わせた。それが静かに息をしている。肩からはすっかり力が抜けているが、鋤を握る拳だけは固かった。
そんな様子を見て、
「ジジイよう、まだ昼には遠いべ。そんなに休んでちゃ、何年経っても終わらねえよう」
まだ十代の半ばくらいか、最も若い農夫が歩み寄った。肌は張り、生気が身体中から溢れているはずだが、泥と垢で黒くなった顔からそれは伺えない。泥のように生き、同じ村に住んでいる年が近いという理由だけの嫁を貰い、何人かの子を生して死ぬ、彼は村から一歩も出ることなく生涯を終えることだろう、そんな種類の若者だった。石槍を担いだ彼は他の面々に振り返り、
「なあ、そうだろう」と言った。
だが他の村人は、二番目に若い者も含めて、思い思いに座り込み、休息の姿勢を取った。弛緩した雰囲気が流れていく。不満気に口許を歪める少年に向かって、
「おい、シドニーよ。お前も休め」
と、精悍な青年が言った。シドニーと呼ばれた少年は納得がいかなかったが、それでも渋々と彼の横に座った。血気盛んな彼であっても、その青年の言うことだけは普段から素直に聞いていた。
「これから退治しに行くのはなあ、ただの狼じゃねえ、瘴気に狂った魔狼だ。お前は知らないが、魔物と呼ばれる連中だ。万全の態勢で臨んだって足りねえくらいだ。その上、一匹だって苦労なのに、群れでいやがる」
青年は舌打ちした。一匹だって苦労なのに。その通りだ。魔物を退治しようと思ったら一匹に三人四人で囲んでやらなければ歯が立たない。それが今回の討伐隊は全村挙げて十三人。群は何匹いるか分からない。とても足りやしない。
半分くらいは死ぬだろうな。青年は悔しさを帯びた目で仲間達を見渡した。
ロリー、エリヤ、ジェイデン、……。
だが、隣で苛立たし気に口を結んでいるシドニーだけは死なせちゃいけない。こいつはまだ若い。人生だって始まってすらいないのだ。
「なあ、ロン」
少年は呟いた。
「昔は魔物がいっぱいいたんだろ。だけど魔王が死んでいなくなった。なのに何で、今になって出てきたんだ」
正直なところ、少年はこの狩りを大したものだと思っていない。確かに畑は荒らされ、家畜は殺され、家屋は傷付けられはしたけれど、狼だって似たようなことはする。被害が少し大きいだけだ。村の生活を脅かす魔狼は憎く、村を守るためには、必ずや退治しなければいけないとは分かっているが、討伐隊とは大袈裟だと思っていた。
いや、むしろ彼は魔物の存在すら肚の底からは信じていなかったと言ってもいい。魔物。魔物? 所詮は動物だ。そんなもの俺だって狩ったことはある。鈍い頭でそこまでは考えてはいなかったが、魔物などという「脅威」がいないという一種の弁証、そんな質問だった。
青年は少年を見詰めていた。魔王が倒されたのは約十五年前か。シドニーが生まれるほんの少し前だ。生まれる頃には魔族は既にこの世界から消滅していた。そして、魔物の数も確かに激減していた。生活には関りがなくなるほどに。見たことのない者もいるほどに。だから彼にとっては魔物のことなんて知る必要もない。必要がないからその知識は持っていない。たったの十五年で、あの時代の記憶は消えてしまう。魔王がこの世を支配していた、地獄の時代は忘れ去られる。
青年は腰元の草を撫で回しながら言った。
「いいか、シドニー、魔王が死んでいなくなったのは魔物じゃない、魔族だ。魔物が減ったのは魔族がいなくなったからだが、魔物はいなくなりはしないんだ」
諭すように言う青年の様子は都会の教師のように見えた。
「魔物と魔族、似ているように思うかも知れないが、全くの別物だ。魔族は魔王を頂点とした一種の社会を持つ生き物だ。人間と同じように社会を作って生活していた。知性だって持っていた、忌々しいことにな。一方で魔物は魔族とは一切関係がない。魔王がいようがいまいが、それは生まれる。空気中や物質に含まれる魔素、それくらいは聞いたことがあるだろう? 空気中の魔素の塊を瘴気と言うが、その影響で動物や植物が狂って、魔物になるんだ。そういう意味では野生動物みたいなものだ。もちろん中には瘴気に関わりなく魔物として生まれるものもあるが、……」
ロンがそこまで言って息を継ぐ間を置いた途端、不意に空気が震え、後ろから裂帛の悲鳴が響いた。
「クソッ、クソッ」
一人の農夫が鍬を脇に放り出し、血塗れの仲間を抱いていた。ロンとシドニー、他の仲間達は彼らの元に駈け寄った。抱かれた男は肩から血を迸らせていた。その左腕はなかった。支える農夫は誰からか突き渡された上着を彼の肩口に押し当てて止血しようとしていたが、奔騰する血液は瞬く間に布地を朱に染め、勢いを減じることなく流れ出た。
「ブルーノ! ブルーノ!」
呼びかけも虚しく、男の顔は見る見る青褪めていった。
「どうしたんだ!」
「猿だ! クソ! 魔物化した猿がブルーノの腕を持って行きやがった!」
「どこだ!」
「逃げた! ああ、クソ、ブルーノ……」
「こんな、村の近くに」
誰かが歯噛みした。
「ああ、ブルーノ……。あのクソ猿は今頃ブルーノの腕を食ってやがるんだ。俺達なんか歯牙にも掛けないでよお。ああ、ブルーノ、お前のリュートは素晴らしかったなあ。だけどあの猿はお前の素晴らしい腕をただの餌にしてやがるんだ!」
彼は息を弱めつつある男の親友だった。彼はいつものように親友の隣に座っていた。それがただ一瞬、ただの一瞬目を離した隙に魔物化した猿に襲われていたらしい。
口々に魔猿を罵る農夫達の中で、年長者のリーダーが親友の危篤を嘆く男に、彼を連れて村へ帰るように告げた。
「マーヴィン、ブルーノを家で介抱してやれ」
マーヴィンは涙と呻きを漏らしつつ、頷いて村の方へと向かって行った。
仲間の重症に気を病みつつも、ロンは別の理由で眉を曇らせていた。まだ標的に会ってもいない。その棲み処に近付いてすらいないだろう。それなのにもう二人の脱落者。残り十一人。ブルーノには悪いが彼らはむしろ幸運だ。この十一人の中の、一体何人が生きて村へ帰れるのだろう。